■異邦人に寛容な風土
ダダッ、ダダダダッ-。ミシンの音が、薄いベニヤ壁を震わせる。冷房のモーターが低くうなり、窓を通して鉄工所のつち音。それらの騒音を打ち消すように、ステレオからベトナム語の流行歌が響く。
新湊川の河口近くのプレハブ工場。二階の一室で、ベトナム人、トラン・ニョン(38)が、ケミカルシューズの加工・縫製業を営む。三十平方メートルほどの作業場にはミシンが六台。トランと妻のバンリン(38)、三人のベトナム人女性がミシンを扱い、ほかにも近所のベトナム人主婦ら約十人に内職仕事を発注する。
「震災以降は加工賃が下がったが、仕事の発注は絶えない。ここでは、まじめに働けばみんな信用してくれる。震災で長田を離れた仲間も、今は戻りたがってる」。トランは満ち足りた笑顔で話す。
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トランの故郷は、美しいビーチの広がる南ベトナム中南部のニャチャン。父は政府軍兵士だった。そのため、祖国統一後の一家は、様々な迫害を受けねばならなかった。
トランは戦後、サイゴン大学に進んだ。だが、将来の道は閉ざされていた。「このままでは、まともな仕事には就けない」。悩み抜いた末に、三年生だった八一年、小型ボートでベトナムを脱出する。同行者は十五人。途中で台風に襲われ、雨水だけを頼りに三十五日間も漂流し、半死半生で石垣島にたどりついた。
沖縄の収容施設で二年余りを過ごし、姫路定住促進センターへ。そこで、同じボートピープルのバンリンと出会った。日本語を学んだ二人は、八四年に職業紹介で長田のケミカルシューズメーカーに就職。まもなく結婚した。
「長田の人は親切だった。私たちのつらい気持ちをわかってくれた」。家族的な雰囲気に感激し、二人は迷いなく定住を決める。
夫婦は懸命に働き、国に残したそれぞれの両親に仕送りしながら資金を貯(た)め、九二年に今の貸し工場で独立した。長田では、二人の子供にも恵まれた。
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そんな矢先、震災がトラン一家を襲った。工場は天井が落ち、床が波打った。わずか一カ月で操業を再開できたが、生まれたばかりの二男を抱えたバンリンは、小学一年生だった長男と二カ月、姫路の知人宅へ避難しなければならなかった。
「姫路は、車がないと買い物にも行けない。自転車だけで生活でき、近所の人も親切な長田のよさがよくわかった」と、バンリンは振り返る。「大阪や東京で暮らす友人と会うたびに、生活費が安く近所づきあいのある長田での暮らしが誇らしい」とさえいう。
二人の子供は、すっかり長田にとけこんだ。「友だちがたくさんいて楽しそう。でも、ベトナム語があまりわからない」と、バンリン。
トラン夫妻は今、日本への帰化手続きを進めている。
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ベトナム戦争が終結した七五年以降、日本にも多数のベトナム人難民が海路で上陸。これまで約七千五百人が定住した。神戸市内にも、今年三月末で留学生を含め七百八十四人が暮らし、そのうち六割は長田区に住む。
ボランティア団体・神戸定住外国人支援センターの中村通宏副代表は「約半数はケミカル業界の就労者や家族」だという。
なぜ、これだけ多くのベトナム人が、ケミカル業界に集まったのか。
中村は「慢性的な人手不足に悩む業界が受け入れに積極的だったほか、単純作業で日本語ができなくてもあまり困らないためではないか」と推測する。
それに加えて、長年、在日韓国・朝鮮人と日本人が支え合ってきた業界には、新たな”異邦人”を違和感なく受け入れる風土が醸成されているようだ。
ある在日韓国人の二世経営者(55)は、こう話す。
「彼らには、在日一世と同じハングリー精神を感じる。だから気持ちがよく通じるんです」
”長田村”には、民族の壁はない。(文中敬称略)