■浸食される国内市場 多品種少量生産で対抗
カメラのフラッシュがきらめくステージを、長身の男女や子供のモデルが軽やかに歩く。会場には、百人をはるかに上回る雑誌記者や服飾関連業者らが詰め掛け、モデルの足元に熱い視線を注いだ。
ニクソン・ショック翌年の一九七二(昭和四十七)年八月、河野護謨が東京・数寄屋橋のソニービルで開いた、国内初の靴のショー。フランスの靴メーカーと技術・販売提携したブランドシューズ「キッカーズ」の発表会である。
「キッカーズ」は、フランスで一大ブームを呼んだカジュアルシューズ。当時、河野護謨の専務だった河野忠博がフランスの靴見本市を見学した際、飛び込みで提携話をまとめた。「乱暴な話ですが、ファッション産業にとって、企業イメージ戦略が欠かせなかった。海外ブランドを手に入れて一気に知名度をあげたかった」と振り返る。
その狙いは的中し、「キッカーズ」は日本でも大好評。中でも、子供用ゴム長靴は、小売価格が二千円と国内相場の約三倍でケタ外れの高級品だったが、発売から三年間で七十五万足も売る爆発的なヒット商品となった。
「オイルショック後の景気低迷期だったが、よい品なら少々高くても売れると確信していた。質の時代を迎えていたんですね」。
河野は七四年、父から社長の座を譲り受け、七六年には社名を現代風に「カワノ」と改める。この年から、消費者ニーズに素早く対応しようと、直営小売店の展開を始めた。
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そのころ、人件費の安い韓国、台湾、中国などで生産された低価格品が、日本に押し寄せ始めた。七七年に米国が非ゴム履物の輸入割当制を実施し、米国向け輸出を制限された製品が、日本にホコ先を向けたのである。神戸でも、靴屋の店先に積み上げられるバーゲン品は”長田製”から”アジア製”に切り替わっていった。
すでに輸出市場は奪われており、危機感を深めた日本ケミカルシューズ工業組合は、付加価値の高い製品で水をあけようと、業界の体質改善に乗り出す。
先進のイタリアやドイツから靴職人を招いて講習会を開いたり、ヨーロッパやアメリカの靴メーカーに視察団を送って、最新の技術やデザインを学んだ。
しかし、成果は少なかった。「一部の経営者は自費でも海外へ出かけ、流行をつかんでヒット商品を生んだ。だが、大半は目先の仕事に追われるばかりで、笛吹けど踊らずだった」。七二年から八四年まで同組合の専務理事などを務めた安本太郎(77)は、厳しい表情で当時の実情を語る。
業界は、八一年から八三年にかけてブーツブームで一息ついだものの、近代的工場で大量生産する中国、韓国、台湾などに押され通し。素材を天然皮革に切り替える一方、特有の分業体制の強みを生かして、短納期の多品種少量生産で対抗した。しかし、生産量は下降線をたどる。ドルショック直前まで年間一億足以上だったものが、九四年には三分の一に落ちだ。
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九五年一月一七日、阪神・淡路大震災が、苦境にあえぐ長田のケミカル業界に追い打ちをかけた。業者の八割が操業不能に陥り、震災から三年半が過ぎた今もその二割は再開できない。量販店などが仕入れ先を海外にシフトしたこともあって、生産量も震災前の七割にすぎない。
従業員約三百人と、全国一の婦人靴メーカーに成長したカワノも、鉄筋三階建ての作業ビルが全壊。いまだにプレハブ工場で靴づくりを続ける。長引く消費不況で経営は必ずしも順調とはいえない。しかし、スニーカー攻勢で中止した高級子供靴の生産に、今秋から再びチャレンジする。
「本当に品質のよい本革の子供靴が市場から姿を消して久しい。消費不況下だが、この業界で生き残るには、どんなに厳しい環境でも挑戦を続けるしかないんです」。河野はそう言って、白髪の目立ち始めた頭をなでた。(文中敬称略)
1998/8/21