■ゴム靴業者ら新素材に ファッション性が受け展望
「三宮周辺は焼け野原だったが、闇市(やみいち)ができて人でごったがえしとった。長田では戦前に百近くもあったゴムの煙突工場が十ほどに減っとったかなあ」
終戦二カ月後の一九四五年十月、兵役から戻った藤本芳秀(75)は、空襲で一変した当時の故郷をこう回想する。
藤本の父が、二三(大正十二)年に林田区(現・神戸市長田区)日吉町に創業したゴム履物の「藤本護謨(ごむ)工業所」も焼失していた。
長田のゴム産業は、明治末期、英ダンロップが神戸・脇浜に建設したタイヤ工場を源流とする。そこで技術を学んだ職人たちが相次いで独立。おりから陰りが見え始めたマッチ産業の工場を利用して、タイヤ、ベルト、ゴム履物などの生産を開始した。二〇(大正九)年からわずか三年で、百八十ものゴム履物工場が出現した、という。
戦前のゴム産業の勢いを知る藤本は、「履物は生活必需品。作れば売れる」と奔走して資金を工面し翌四六年春、「藤本護謨工業」(後にライオンに改名)の社名で、長靴の生産に乗り出す。
しかし、原料の生ゴムは極度に不足し、戦時統制並みの割り当てが続いていた。やむなく闇ルートで生ゴムを仕入れては、警察に検挙されるいたちごっこも。
その一方で、日増しに力をつけていったのが、戦前のゴム工場で過酷な労働を強いられていた朝鮮半島出身の人々。彼らは続々とゴム工場の経営に着手。持ち前の粘り強さ、バイタリティーで、業界に新風を吹き込んだ。
「戦前、ゴム産業に携わっていた日本人、朝鮮人が競うように煙突工場を建てていった。戦後二、三年で、うちの周囲がゴム工場で埋まった」と、藤本はそのころの活況ぶりを語る。
他産業からの参入組も相次いだ。後に日本ケミカルシューズ工業組合の理事長も務めた石井喜司雄(82)もその一人。布地の製造を手掛けていたが、「職人を紹介するから靴を作ってみたらどうや」と、知人に勧められ、転身したという。
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だが、戦後のモノ不足の時代に活況を呈したゴム履物業界も、五一年の生ゴムの統制解除を機に、一転、苦境を迎える。月星化成、世界長といった全国の大手ゴム靴メーカーが大量生産を開始。中小メーカーが集う神戸の業界はコスト面で太刀打ちできず、倒産が相次いだ。
塩化ビニールという画期的な新素材が現れたのは、ちょうどその時期である。
中小メーカーは、飛びついた。「あのころ、中小が生き残るには、小回りの利くモード靴を作るしかなかった。塩ビの出現は、まさに業界の救世主になった」と藤本。
とはいえ、もともとシートとして登場した塩ビを、靴素材にする試みは、至難を極めた。仕上げ工程で加熱すると、変色したり気泡が発生するなど、商品にならない。資材商社、化学メーカー、接着剤メーカーを含め業界が総力を傾けたが、素材として安定するまで試行錯誤の連続だった。
しかし、五二年に塩ビ製のシューズが世に出るや、カラフルな色遣いと安さで、たちまち女性の心を奪う。当初はビニールシューズと呼ばれたが、その後、「ケミカルシューズ」と命名され、ハイカラな神戸のイメージとも重なって急速に普及していった。
五四年四月、「新長田駅」の開設を記念して駒ケ林中学校で開かれた業界初のシューズ展示会には、七十一社が出品。各地の問屋が詰め掛け、盛況にわき返った。
時代は、ほどなく神武景気に突入し、業界は華の時代を迎える。
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産業は生き物であり、時代の波に洗われて進化し、また淘汰(とうた)される。神戸の代表的な地場産業であるケミカルシューズ産業も、決してその例外ではない。敗戦後の混乱の中で芽生え、間断ない時代の風雪にさらされながらも、地域にしっかりと根を張ってきた。業界を支え、育ててきた人々の姿、生きざまを通して、そのプロセスを追う。(文中敬称略)
(山口裕史、原康隆、松井元)
1998/8/19