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(2)ニクソンショック 輸出メーカー壊滅状態に
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国内型業者は着々地歩 革靴でデパート進出果たす
 神戸で生まれたケミカルシューズが急速に市場を拡大し、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した一九五六年、一人の若者が業界に入った。当時の業界では極めて珍しかった大学卒。現在、カワノ社長を務める河野忠博である。

 祖父が始め、父が堅実に足場を固めた河野護謨(カワノの前身)は、従業員も二十数人を数え、すでに子供靴のトップ企業に育っていた。新進気鋭の河野は、直ちに工場にベルトコンベヤーを導入、分業による生産効率のアップを目指す。ところが見事に失敗し出ばなをくじかれた。

 当時の従業員の給料は、作業量に応じて決まる出来高制。それがコンベヤーの導入で固定給に変わったため、労働意欲が一気に低下してしまったのだ。

 そんな苦渋をなめながらも、河野は次々に果敢な挑戦を続ける。五八年には「子供靴だけでは業界の主流になれない」と、あえてファッションの変化の激しい婦人靴の生産を開始。その一方で、新素材を積極的に採り入れ、斬新(ざんしん)なデザインで次々とヒット商品を出していく。

 しかし、百貨店の売り場には置いてもらえず、専門店でもメーンの場所は必ず革靴が占領していた。「いくら努力しても、ケミカルは革靴の代替品でしかないのか…」。河野は時に無力感にさえ襲われた。

 消費者の生活にゆとりが生まれ、本物を求める傾向が出始めた六三年、河野は業界で初めての革靴生産に踏み切った。

 だが、靴の流通ルートは種類ごとに細分化されており、百貨店で扱ってもらうには、東京に集中している革靴問屋を通さなければならなかった。河野はサンプルの入ったスーツケースを抱え、毎月上京しては革靴問屋を回るが、「『ケミカル屋の靴なんかいらないよ』と、まともに見てもくれなかった」という。

 それにもめげず、半年、一年と通い続けるうち、一、二社が取引してくれるようになった。「百貨店の店頭に商品を並べたい」-との河野の夢は七〇年、ようやく日の目を見る。

    ◆ 

 国内市場の開拓に情熱を燃やす河野が、百貨店進出を実現したころ、ケミカルの輸出依存型メーカーは”悪夢”に見舞われようとしていた。いわゆるニクソンショックである。

 七一年八月、ニクソン米大統領が、ドルと金の交換制を停止する「ドル防衛策」を発表。一ドル=三六〇円に固定されてきた為替レートは、同年九月に三三九円、同十二月に三一四円、翌年二月には三〇三円と切り上がり、主要市場の米国向け輸出が窮地に陥った。当時、生産量の約半分を輸出していた業界には、まさに晴天のへきれきだった。

 ケミカルシューズの輸出を手がけていた神戸・長田の商社「新興綿業」(現シンメン)の社員で、後に同社常務も務めた広瀬節男は、大統領の発表を聞くと、汗だくになりながら「今後、アメリカからの注文はなくなるかもしれません」と、得意先メーカーを回って伝えた。台湾、韓国の台頭で、すでに国際競争力は失われつつあった。

 しかし、経営者らは、「しゃーないなあ」「流れやなあ」-などと言うだけ。「あまりに突然だったため、放っておいても大量の受注がくる”良き時代”が終わったことが、実感できないようでした」。広瀬は述懐する。

 なにしろ、それまでの長田は、どこを歩いても外国人バイヤーに出会うような盛況。米国人バイヤーらは、フランス製の靴を持ちこんでは、「一回に二十万~三十万足とコピー商品を注文した」と、広瀬はいう。

 五五年に百三十六万足だったケミカルシューズの輸出は、ニクソンショック前年の七〇年には四千四百四十三万足と、飛躍的に伸びていた。

 だが、時代の荒波に、小さな業界が抗するすべのあるはずもない。円高の進行、さらには七三年の変動相場制への移行につれてバイヤーは台湾、韓国へと流れた。百社近くあった長田の輸出メーカーは必死に内需転換を図るが、ほとんどが数年のうちに姿を消す。(文中敬称略)

1998/8/20
 

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