「一日でも早く、一人でも多く。それが合言葉だった」
神戸市灘区の琵琶町復興住民協議会事務局長として、まちづくりを進めた中川清司さん(62)が振り返る。
戦災を免れた同町では、阪神・淡路大震災前まで道幅3メートル未満の路地が多く、文化住宅などの木造家屋が密集していた。全世帯の4割は借家だった。
震災後、同町1、2は復興区画整理事業が導入された。住民協は事業に参加できない借家人にも「受け皿住宅もできる。まちに戻ってほしい」と情報を送り続けた。2001年、区画整理では2番目に事業が完了した。
3階建て住宅が整然と並び、電線は地中化され、新興住宅街のように生まれ変わった。だが、人口は震災前の3分の2にとどまる。
◇
「区画整理は、どうやっても人口が減る。努力はしたが、それが現実だ」。同地区のまちづくりに携わったプランナー、小倉啓太さん(45)は語る。道幅を広げ、公園を整備する手法では、宅地の面積が絶対的に減る。
住民増へ、小倉さんらは住宅の共同再建を提案した。だが、早期再建を望む住民は時間と調整を必要とする共同化を敬遠した。
◇
さらに、区画整理は住民の「去就」にも影響を与えた。西野淑美・東洋大准教授(41)は「土地の権利と住宅再建資金の有無が分かれ目だった」とみる。
西野准教授は、同地区の住民に転居調査を実施した。震災前からの386世帯のうち、02年時点で地区内に住んでいたのは4割弱の151世帯。ほぼ全員が持ち家だった。
借家人が去り、再建をあきらめた住民が土地を売り払う。借家人らが優先入居できる受け皿住宅も建設に5年を要し、入居した元の住民はわずかだった。
西野准教授は「去った人には、本意も不本意もあった」と話す。琵琶町外の公営住宅に移った60代女性は調査にこう語ったという。
「元居たまちに帰りたい。ここも灘区だが、本当に戻れたとは言えない」(森本尚樹)
2014/6/20