風情を重んじ、あえて残していた木造の蔵は、一部が完全に崩れ落ちていた。
「これは復旧が大変だ」。阪神・淡路大震災から1週間後。「国冠(こっかん)酒造」社長の小林悌治(ていじ)さん(80)は、東京本社から神戸市東灘区魚崎西町2の酒蔵に駆けつけ、天を仰いだ。
大正時代、酒蔵を埼玉県から魚崎に移転した。小林さんは「どの地方の蔵も、灘の水にはかなわない」と言い切る。1980年代以降、全国の日本酒醸造量は減少するが、灘の酒は売れ続けた。
だが、日本酒の低迷は続き、90年代には灘も陰りを見せる。そして、震災。98年、同社は酒造分野から撤退した。小林さんは「市場が元気で、蔵の再建費用を取り戻せるなら、何とかしただろうが…」と嘆息する。
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西宮市から神戸市灘区にまたがる日本一の酒どころ「灘五郷」。最盛期に約70あった酒造会社は30社足らずに減った。被災後に蔵を再建しながら、撤退や廃業を余儀なくされた社も多い。
魚崎郷(東灘区魚崎西町1~2、魚崎南町3~5)も、震災前の12社が5社に激減。国冠の跡地は巨大マンションになった。他の酒蔵跡もマンションや商業施設が次々と建設され、景観は一変した。
東灘区は市内で最多の約1470人が震災で亡くなった。一方で震災後、人口は増加の一途をたどり、魚崎小の児童数(現1454人)は毎年、全国一を争う。震災後に市外から転入、または出生した人が半数を超える。
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伝統を守ろうと、住民らが酒造会社とつくった「魚崎郷まちなみ委員会」の活動は、間もなく丸16年になる。イベント開催や、市との景観形成市民協定に基づき、地区内にできる建物の意匠などについて意見する。
新住民が増え、次代にどうつなぐかが課題だ。委員長の大石隆さん(82)は「酒蔵の存在を知らない人もいるが、住民が増えていることは希望。まちを託せる人がきっと現れる」と期待を込める。
(森本尚樹)
2014/6/23