無人のフィールドに、隣のスタジアムから歓声が届く。王子補助競技場(神戸市灘区王子町2)。練習用のグラウンドや駐車場として使われているこの場所に、144戸の仮設住宅があった。
阪神・淡路大震災後、市住宅局で仮設住宅の用地確保を担当した井垣昭人・市すまいまちづくり公社部長(55)は「公園という公園は、しらみつぶしに当たった」と振り返る。
用地不足の中、開通前の道路にも仮設住宅が建った。災害派遣の自衛隊が撤収した跡地に「王子公園仮設」が建設されたのは、震災の年の6月だった。避難所の解消に向けた最終募集分だった。
灘区灘南通5で被災し、夫と入居した知念徳子さん(71)は「仲の良い住民同士で部屋を行き来して、お酒を飲んでね。いろんな人がいて、楽しかった」と懐かしむ。
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被災者同士が暮らした仮設住宅は「壁が薄くプライバシーがない」「夏暑く、冬寒い」「狭くて窮屈」など環境は過酷だった。
1997年以降、復興公営住宅の入居募集が本格化。住民は一人、また一人と去った。自治会長だった上原孝仁さん(64)は「申し訳なさからか、人知れず引っ越しする人が多かった」と話す。
同仮設は99年8月に最後の一人が退去し、役割を終えた。知念さんはHAT神戸の復興住宅に、上原さんは兵庫区の借り上げ復興住宅に移った。
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その後、元住民は「毎年4月の第1日曜に仮設の跡地で花見をしよう」と決める。最初の2~3年は大勢が集まったが、その後数人に減り、途絶えた。
上原さんは「新しい暮らしになじんでいったのだろう。仮設での日々も、人間関係も、その場限りなのかもしれない」とこぼす。
「恒久住宅」として入居した借り上げ復興住宅に暮らす上原さんは、6年後の退去期限を示された。上原さんは「仮設を出て、始めた生活も、結局は『仮』だったのか」とやるせなさを隠さない。
(森本尚樹)
2014/6/26