ふと目を上げると、電車の窓の向こうに焼け跡が広がっていた。
1995年早春。大学受験のため岡山県から神戸に来ていた波江野(はえの)記子(のりこ)の頬を涙が伝った。阪神・淡路大震災で大火にのまれた長田を通過したところだった。
神戸市立外国語大、神戸大大学院を出た波江野は高校の英語教諭になった。兵庫県立舞子高校(神戸市垂水区)に配属されたのは2年前。環境防災科(環防(カンボー))の担任となり、現在3年を受け持つ。事あるごと、あの日見た光景が脳裏によみがえる。
◇
被災1096校、亡くなった児童・生徒296人、避難所になった学校389校。
震災で兵庫県内の公立学校は大きな被害を受けた。当時の県教育次長、近藤靖宏(77)は神戸市長田区の自宅が全壊し、県庁に泊まり込んで対応に追われた。
学校再開を急がねばと考えていたが現場に足を運ぶと、そんな次元ではなかった。「遺体を体育館に運びました」「避難者が増え続けています」。どの学校からも報告はすさまじかった。
学校に詰めていた臨床心理士の女性から、すごいけんまくで電話がきたこともあった。
「子どもたちがどんな状態か知っているんですか!」
近藤は「災害で子どもが傷つき、ケアが必要だなんて頭になかった」とがくぜんとする一方で、「この大きな経験を後世に残すべきだ」と強く思った。
モデル校で防災教育を行い、副読本をまとめた。だが、物足りない。もっと強烈な何かが必要だ-。
行き着いたのが専門学科の創設。地理的条件や校舎に太陽光発電パネルを設けていることなどから2000年、舞子高に決まった。
「環防は教育復興のシンボル。いくら歳月が過ぎてもここから発信し続けてほしい」。近藤は思いを託す。
◇
今春、環防は一つの節目を迎えた。02年の開設以来、先頭で走り続けた元科長の諏訪清二(54)が松陽高(高砂市)に転出したのだ。
2年の担任桝田順子は環防5年目。東日本大震災直後、生徒と宮城県東松島市を訪れた。打ちのめされた。神戸に戻った後も被災地の話は口に出せず、苦しんだ。
驚いたことに、諏訪はけろりとしていた。悩む桝田に「俺みたいに鈍感になれよ」。だが続けて「今の、うそや」。素っ気なく付け足した一言に、桝田は看板を背負う重圧を垣間見た気がした。
諏訪は特に引き継ぎもしないまま、「じゃ」と言い残し去っていった。しかし築いた人脈は途切れず、重ねた経験は生きている。
7日。生徒たちは駅前で丹波豪雨の募金に立った。環防の日々は続いていく。
(敬称略)=おわり=
(宮本万里子、黒川裕生)
〈メモ〉
防災の専門科がある学校 宮城県多賀城高校は2016年に専門学科を開設する予定。公立高としては舞子に次いで2校目となる。大学では神戸学院大が今年4月、社会防災学科を開設。関西学院大には災害復興制度研究所、兵庫県立大は防災教育センターを持つ。
2014/9/8