「あの日」以来、虫1匹も殺せなくなった。「なんで出てきたの」。紙に包み、そっと逃がす。「私も全てを失った。でもまだ生かされているのだから」
神戸市長田区の小さな金型工場。高校を出た次男が夫を手伝い、ほそぼそと営んでいた。震災当日、2階の住まいで激しい揺れに飛び起きたが、建て替えて5年ほどだった自宅兼工場は持ちこたえてくれた。「よかった」。胸をなで下ろした数時間後、近所から出た火が、辺り一帯を焼き尽くした。
九州の大学に進んでいた長男を除き、一家4人で避難所へ。幸い知人のつてで、程なく明石に部屋を借りられた。夫は長田に残り、次男と高校生の長女を連れて移り住んだ。夫とはその後共に暮らすことなく、離婚した。
「震災は多くを奪ったけれど、自分を見詰める時間をくれた」。失ったものたちに代わり、身中から湧き出てきたのが、20代の頃に書き始めた詩だった。
重苦しい梅雨空の下を/ひた走る午後の電車は/目を閉じた乗客ばかり(略)涙が出ても大丈夫/気がねなく哀しみと向き合える(1997年8月4日付「泣きたい日」)
「幸せな家庭生活が続いていたら、こんなには書かなかった。苦しんで苦しんで出てくる言葉が私の詩。書くことが支えであり、生きている証しだった」
離婚してからは、もっぱら清掃業などの肉体労働で身を立ててきた。賃金は安く、不便な部屋に引っ越しを繰り返した。年齢を重ね、体は悲鳴を上げたが、詩だけは手放さなかった。
自信なげにぼそぼそ喋(しゃべ)り/頼りなくとぼとぼ歩く/大抵顔は俯(うつむ)いている(略)それでも心の中の自分の言葉は(略)空高く舞いあがり/言葉を数珠つなぎに光らせて/一つの詩を作り降りてくる(2014年6月16日付「詩心」)
つらい記憶は消えないが、苦しかった詩作は、いつしか喜びに変わっていた。「朝、日が昇る。今日も生きている。今はただ、それだけでうれしい」
(平松正子)
2015/1/3