被災地はまだ頑張っている途中だった。阪神・淡路大震災から6年近くたった2000年12月16日、ユニバー記念競技場(神戸市須磨区)。人文字を作る教え子に交じり、空を見上げた。「神戸からありがとう」。そのメッセージの中にいて、こみ上げる思いを詩にした。
「屈託のない子どもたちと一緒だと、自然に前向きになれた。市民の代表として、全国に感謝を伝えられることが誇りに思えて」。みんなの思いを写した航空写真は、市民ランナーの手で全国に届けられた。
2007年に退職するまで、小学校の先生だった。震災当時の勤務先は同市北区。その学校に大きな被害はなかったが、転校してきた被災遺児たちが新しい環境になじめずにいた。すぐ近くにできた仮設住宅からは、「生きてここを出たい」とつぶやくお年寄りの声が聞こえてきた。
「そんな年の暮れ、年賀状を準備していた時に、どうしても『おめでとう』と書けなかった」。代わりに、13行の文章をつづった。
どんな困難にも 負けないぞ!(略)きのうより また一つ/希望の明かりが灯(とも)ったぞ!
送り先から「『神戸は頑張ってる』ということが伝わってきた」という感想が返ってきた。それが、初めて書いた詩だった。
学校では子どもたちに、命の大切さを教えてきた。「自分の命を大事に思うことは他人を大事にすること。しつこいくらい伝えた」。震災の年に受け持った6年生が卒業の寄せ書きをする色紙の中央には、大きく「生きる」と書いた。「それが当然の年だった」
あれから毎年、震災のことを詩に書き、投稿する。気になっていた遺児のこと、仮設をなかなか出られない人たちのこと、震災を知らない世代に伝えたいことを。「言葉にすることで当時を思い、今の気持ちを確かめる。過去と現在、自分と周囲がつながっていると再認識できる」。共感してくれる見知らぬ読者がいると信じて。(金川 篤)
2015/1/4