自宅から見えた街の煙は、遠い日の戦争の記憶と重なった。
「私らの世代はみんなそう。焼け野原になった長田は、まるで空襲後のようだった」
子ども3人は独立し、神戸市長田区雲雀ケ丘で夫と暮らしていた。自宅は無事だったが、家を失った人のつらさは身にしみた。「私も2度、焼け出されたから」
18歳のとき、兵庫区と須磨区で神戸空襲に遭った。2度目、降り注ぐ焼夷(しょうい)弾から逃げようと防空壕(ごう)を出たとき、もんぺの裾をつかまれた。「みやちゃん、助けて」。赤ん坊を背負った近所の女性だった。綿入れの羽織には火がくすぶり、顔は焼けただれていた。赤ん坊の泣き声はなかった。
「自分のことだけで精いっぱいで、振り切って逃げた。よくしてくれたおばさんだったのに。誰にも話せなかった、心の傷」
50歳を前に始めた詩作の根本には、反戦への強い思いがある。
〈軍からひとひらの紙切れに戦死と書かれていた/それだけのことで信じる事ができますか!〉(1994年8月13日付「あの日」)
兵庫区で被災し、一昨年に逝った友は、仮設住宅でも夫の陰膳を上げ続けていた。
毎夏、終戦の詩を詠(よ)みながら思うのは、長屋の隣同士で暮らした「二つ三つ上のお兄ちゃん」。出征後の安否は分からない。
「当時はお兄ちゃんのお嫁さんになるんやと思ってたから、今でも老人ホームに行くとつい、同じ年ごろの男性が寝ている部屋の名札を確認している。心に美しい思い出のままの人がいるって、良いものよ」
終戦直前に父が病死し、粗末なバラックで母と暮らした。間もなく、復員した男性と19歳で結婚。戦後の苦難の中、母子を食べさせてくれた夫と、今も元気に寄り添い暮らす。
詩は、戦災をくぐり抜けた者からのエールだ。「助かった命を大事にしていれば、いつかはつらかったことも話せるようになるからね。だから大丈夫よ、大丈夫よ」と。(松本寿美子)
2015/1/6