妹からの電話は震災から10カ月後の11月23日。喜ぶ声を聞くうちに涙が出てきた。「なんで泣くの」と妹。「私の方が(復興への)思いが強かったんでしょうね」
妹は兵庫区、母は長田区に住んでいた。震災当日、テレビに映し出される長田の町を見て、母は亡くなったと悟った。母の自宅は菅原通。翌日、妹から公衆電話で「母は大丈夫」との声。無事だった。全壊した自宅を放置して駆け付けた妹と一緒だった。
自営業の妹は自宅を早く再建したかったが復興需要で人手がなく、めどがついたのは秋。地鎮祭の連絡と同じ日、仮設住宅がなかなか当選せず、不安を募らせていた中学時代の同級生も喜びの電話をかけてきた。「2人とも前に進んだことがうれしくて、すぐにこの詩が出てきた」
結婚後、25歳ごろから書き始めた詩は、身近な風景やできごとに「ふっと湧いた気持ちをすっと」出してきた。震災は、そんな詩作のあり方も変えた。「本当に被災した人はつらさや喜びを書けないだろう。それを私が伝えたい」。大きな被害がなく、幾分冷静になれたことも書くエネルギーを後押しした。
「どちらかと言えばやさしい私、明るい私が出ている」。数百編書いた詩を振り返ると、そう感じる。では、もう一方の私はどこに。「40歳から始めた川柳は暗い面が出ている。詩で書けることを川柳では書けない」。詩はうれしい感情を外に放出する一番確かな手段だった。
書き続けた震災関連の作品は、母を通して見た情景と心情が多かった。「読んでくれると、こんなふうに見てたんやってうれし泣きしてくれて。被災者の象徴でした」。その母は3年前、85歳で亡くなった。
「無常を感じた。書かなければという気持ちはあるけれど、震災の記憶が薄れていくのを止めることはできない気がする」。時間のむごさと向き合って生きるという課題を、母は残してくれたのかもしれない。(吉本晃司)
2015/1/16