1945年7月24日、滝野町に落とされた小型爆弾の破片(加古川流域滝野歴史民俗資料館提供)
1945年7月24日、滝野町に落とされた小型爆弾の破片(加古川流域滝野歴史民俗資料館提供)

 1945年7月24日午前11時ごろのことだった。

 「お母さんがけがした! すぐ帰れ!」

 近所に住むいとこが真っ青な顔をして、勤務先の織物工場まで走って来た。急いで5分ほどの滝野町(現加東市)の自宅に戻った田中たね子さん(87)=西脇市=は、玄関の上がり口で頭から血を流して倒れている母のとみゑさん(当時52歳)を見た。母が編んで玄関に置いていたわら草履が真っ赤に染まっていた。米軍機の機銃掃射が頭に命中したのだった。

 軍需工場が引っ越してきた同町では、45年に入り米軍によるB29の飛来が目立つようになった。その日も朝から空襲警報が鳴り響いた。「田んぼに草取りに行こうか」と悩む母に、「外は危ないで。家にいたらどう」と言って出掛けたばかりだった。

 「まさか」。まだ14歳だった田中さんは涙も言葉も出なかった。なすすべもなく、次第に冷たくなっていく母をぼうぜんと見ているだけ。「お母さんが死んだ、死んだ」。11歳の弟は布団をかぶったまま泣き叫び、家中を走り回った。頭上にはまだ、艦載機の音が響いていた。

 後に町内で、その日の爆撃の犠牲になったのは3人と聞いた。「私の一言が母の命を奪ってしまった」。自分を責め続けた。

 それから22日後に終戦を迎えた。「もう少し早く終わっとったら、死なずに済んだのに」。父は仕事もせず酒を飲み、当たり散らした。「今なら寂しかったんやろうと思えるけど、その時は理解できんかった」。それでも、毎晩父の酒を買いに行った。

 父と弟との3人暮らし。田中さんは織物工場の事務員を務めながら、2人の世話に明け暮れた。弟の参観日にも顔を出した。

 戦後の貧しい生活の中でも、近所の同世代の女の子たちは小ぎれいな服を買ってもらっていた。田中さんには、生活を切り詰めてまで服を作ってくれる母はいない。相談できる人もいない。「何で私だけ」。言葉をのみ込んだ。「どんな時も人には親切に。心の貧乏にだけはなるな」。母の残した言葉だけが途切れそうな思いをつなぎ止めた。

 結婚には、タンスや着物など嫁入り道具がいる時代。家にはそんな余裕もなく、20歳で事情を知るいとこと結婚した。母のけがを知らせてくれた人だった。

 嫁いだ先は10人を超える大所帯。「苦労しとるお前とやから一緒に家族を支えていける」と頼りにしてくれる夫との生活で長女と長男を授かった。子育てが一段落してからは保育所の調理師として働いた。阪神・淡路大震災後は炊き出しを手伝い、家族を失った人を「私もや」と励ました。

 母としての田中さんを、娘の野末孝代さん(61)=加東市=は「いつも笑顔で愚痴を言っているのを見たことがない」と振り返る。お盆の墓参りでは、滝野町であった空襲と祖母の最期について語り、手を合わせた。「語り継いでいかなあかんという思いをみんなに伝えてくれた」

 田中さんは「書き残すことが母の供養になる」と二十数年前から、新聞や地元の戦争体験記に自身の体験を寄せた。「こんな悲惨な思いは、私たちの世代だけで十分です」。戦後50年を機に西脇市が募集した戦争体験集にそうつづった。

 新聞の投稿欄にも体験を送った。戦後70年の節目には本紙の「ふれあい」にも投稿。「周りの人に感謝し、平和を願い続ける」-と思いを寄せた。戦争で家族を失った人はたくさんいるからと、あまり語ってこなかったという田中さん。「こんな田舎にも戦争で傷ついた人がいたと、長生きして伝え続けな」。終戦から73回目の夏。ペンに思いを託す。(貝原加奈)