評論家・ジャーナリスト内橋克人さん。現場取材を徹底し、共生経済の可能性を追求した=2003年、東京都千代田区
評論家・ジャーナリスト内橋克人さん。現場取材を徹底し、共生経済の可能性を追求した=2003年、東京都千代田区

 神戸の生んだジャーナリスト、内橋克人。9月1日で没後4年になった。終(つい)の棲家(すみか)となった神奈川県鎌倉市の自宅には膨大な書籍や資料が並んでいた。目を引いたのはA4の封筒だ。取材や講演、番組出演の記録が1件ずつ整理されていた。書籍や資料の一部は神戸市内に移されている。

 封筒の表紙には依頼を受けた日時、担当者名、本番の日時、場所が記載され、中には依頼状や掲載誌・紙、使った資料、自ら書いたメモ、書き込みを入れたシナリオなどが入っている。1990年代後半以降の封筒の数は800を超す。精査すると激動の同時代史が浮かび上がってくる。

 96年5月、クローズアップ現代「地方自治体の赤字財政体質」▽同年7月、テレビコメント「高島屋・商法違反事件」▽同年11月、ラジオ・ビジネス情報「限界見えた日本式合理化」▽97年4月、神戸新聞社説「復元に値する街づくりを」▽同月、視点・論点「規制緩和の本質」▽同月、市民=議員立法(参院議員会館)▽98年7月、ラジオ・ビジネス展望「自民総裁選と金融再生の行方」-。

 神戸新聞の経済記者から歩き始め、独立後、終生、フリーランスとして活動した。経済ジャーナリズムでは企業やマーケットなど「市場」が主語になりがちだが、市井の人々への共感と現場取材に裏打ちされた「人間主語」の視点は他に類を見ないものだった。

 その眼力でバブル崩壊後の日本を覆った不況の長期化を予見。政府は規制緩和と構造改革を推進したが、「失われた30年」に陥り、影響は現代に及ぶ。

 95年が分水嶺(れい)になる-。そう確信したのは阪神・淡路大震災がきっかけだった。45年の神戸空襲で母親代わりの人を亡くし、50年後の大震災で再び瓦礫(がれき)と化した故郷の姿に恐れを感じた。「平常時には深い地底にもぐったまま、滅多(めった)なことで人の目に触れることのない真の『断層』の姿に違いない。今後、悲愴(ひそう)的な無残なものがくる」。予言のように響いた。

 バブルに踊り、「世界を超えた」という自賛論に酔い、不祥事が繰り返され、未曽有の金融危機が起きた。震災で職や家をなくした人が続出したが、その後、不況のたびに解雇や派遣切りで路頭に迷う人々があふれた。「ワーキングプア」として働いても貧困から抜け出せない構造に警鐘を鳴らした。

 資料が並ぶ書棚から「阪神大震災『神戸・須磨・実家』ネガとフィルム」と書かれた封筒を見つけた。95年6月4日のものだ。写真には損壊した実家の前にたたずむ当時62歳の内橋の姿がある。今年で戦後80年、震災30年。この家から戦後社会の荒野を歩む筆一本の旅が始まった。

■神戸空襲と震災、言論の軸に 競争と共生、「裂け目」見つめ続け