男の手にあったのはナイフだったのだろうか。
一九九五年一月下旬、神戸市長田区の西代中学校。避難所外の人への配給は登録制になった。昼下がり、未登録の男性が「弁当、ください」とやってきた。受け付けにいた中学二年のなおちゃん(23)が断った。
「子どもがおるんや」
「決まりなので」
「…出さんかい」
男がバタフライナイフを出したように見えた。先生が割って入った。
なぜか、そのときの記憶ははっきりしない。後に自問した。未登録者に弁当を渡せば困る人が出る。でも、あの人にも事情があったかもしれない、と。
こんなこともあった。炊き出しが“当たり前”になった二月、牛丼のチェーン店が来てくれた。スタッフは礼を言う。もらう人は何も言わない。
なおちゃんたちは「おかしいで」と憤慨した。避難所新聞「ネバー・ギブ・アップ!」の創刊号で、なおちゃんは「ありがとうを言い添えよう」と呼び掛けた。
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沖縄から長田区役所に着くと、「なおちゃんという元気な子がいる」って引き継ぎに書いてあった。西代中学に行ったら、すぐわかりました。授業は再開してたけど、パンを配るのを手伝ってくれた。
沖縄の自然とか話をして、皆に「いつか、おいで」と誘いました。ほんとに来たのは、なおちゃんだけですね。でも、ほかにも文通を続けている人がいる。神戸で、心に得たものがあります。
西代中にも各地からボランティアが訪れた。自治労は三月末まで、沖縄県などから数人ずつを交代で派遣した。宜野湾市役所に勤める伊佐英明さん(44)は三月六-十三日に参加。早朝の物資搬入などを担当した。長田の焼け野原は、写真で知る沖縄戦の光景と重なって見えたという。
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二月五日、なおちゃんの家族は西代中から、近くの母の実家へ移った。父、藤原修さん(49)は、勤務先の大型量販店に近い宝塚市の仮設住宅への入居が認められた。
十二月、再建した家に戻った。翌年春、なおちゃんは県立長田高校に合格。夏には家族旅行で沖縄へ。伊佐さんたちが案内してくれた。
そこでエイサーを初めて見た。舞い踊る人たちが太鼓を打ち鳴らす。大地を揺らす響き。「やってみたい」と思った。
家の近所にも被災者向けの仮設住宅が立っていた。けれども、なおちゃんにとって震災は遠くの出来事になった。「しんどい話はしたくない。話せば泣く人もいる」
震災の記憶は自ら封印した。
2004/3/26