「生徒に情で訴えても通じにくくなった」。なおちゃんを神戸市立西代中学で教えた山岡節子さん(58)は、もどかしさを感じながら今春、定年に二年残して教壇を去る。
怒ってばかりだったから、もっと褒めてやればよかった。棺を見て、そう思いました。
震災で西代中の生徒四人が亡くなった。あの子らに見られているのが私の支えです。あれから生き方が変わりました。命がなかったら、何もできへん。命さえあったら、何でもできる。
若いときは、生徒たちにも公立高に何人入れるか、なんて求めた。今は逆に、勝ち組に入れんでも、別の輝いた生き方があるよ、って。だから、最後に沖縄の教え子に講演を頼んだんです。
「私の生き方」と、演題が張り出された。今年二月十八日、山岡さんが勤める垂水区の星陵台中学。「講師は藤原奈央子さん」と紹介され、沖縄の楽器三線(さんしん)を手にしたなおちゃん(23)が登場した。
なおちゃんは中学時代、山岡さんに「頑張ればいい高校行けるで」と励まされた。「なのに、ええ学校だけが人生ちゃう、という話を頼まれてしもた」と明かし、生徒たちを笑わせた。
九年の歩みを語った。震災で家が焼けた。亡くした友達を忘れない-。今、沖縄で民宿の女将(おかみ)をしている自分がいる。
「私に残ったのは、人のつながりや、友達の懐かしい思い出。形のないものは壊れない。それをどう広げるか。人と人をつなぐ人になりたい。それが私の夢です」
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震災の何を伝えたいか-。取材で会う人たちに聞いた。沖縄では戦争について同じ質問をした。
震災直後の西代中でボランティアをした沖縄の自治体職員は、米軍基地跡への企業誘致が仕事だった。当然「基地反対」と思ったが、彼は慎重に言葉を選んだ。「父が米軍の作業をしていました。基地はないにこしたことないが、雇用創出の場ではある」。父親は沖縄戦で親兄弟をすべて亡くしたという。「戦争の話を父はしません」
戦争。震災。心に傷を負った人が、それぞれにいる。そこから歩み出す人がいる。語ることには痛みが伴う。「沖縄からも震災が見える」と、なおちゃんは考えている。
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講演の感想文には驚きがつづられていた。「夢は、抽象的な、形のないものでもいい」という言葉を、何人もの生徒が書き写していた。ものの獲得や肩書ではない夢。それは何だろう。
震災で、いいことなど何もなかった。でも、その後の出会いが、なおちゃんを変えた。変わろうとした。
「生きるのに必要な知識をもっと身に付けたい。例えば医療技術」
まだ終点ではない。なおちゃんの旅は続く。
(記事・宮沢之祐、写真・岡本好太郎)=おわり=
2004/3/31