青磁のふたを開けてもらうと、それは暗い堂内で、ほの白く見えた。長さ五-十センチほどに砕けた骨が、つぼにあふれそうなほど納められていた。溶けたガラスが付着した骨片もあるという。
加古川市の名刹(めいさつ)、鶴林寺。身元不明の死者一人の発見場所でもある神戸市兵庫区湊川町二丁目で、がれきの撤去にあたった自衛隊員らが手作業で回収した遺骨だという。
住職の幹栄盛さん(66)は震災当時、天台宗による救援活動の事務局を担った。春先、避難所になった兵庫区の福祉センターで、骨片の入った段ボール箱が受付台にあるのに気付いた。湊川町二丁目で亡くなった複数の人の遺骨が混ざり、遺族に返しようがなかったという。幹さんは供養を申し出、寺に持ち帰った。
私たちは淡い期待を抱いて鶴林寺を訪ねた。二丁目の死亡者全員の名前を記憶する住民はいなかったが、何人かに「骨つぼを包む布に皆の名前を書いた」と聞いた。身元不明の死者の名前も分かるかもしれない。
◆
大阪医科大の鈴木廣一教授(法医学)は、震災の二日後、兵庫署に入った。法律では遺体を家族に返す前に、医師が死体検案書を書かねばならない。全国の専門医に応援が要請された。
鈴木教授は三日間、約百七十体の遺体を検案し続けることになった。うち約五十体が焼骨。まるで火葬したかのように骨だけとなった焼死体の検案は初めてだった。「普通なら消火活動があり、遺体にも身元の手掛かりが残るのですが…」
湊川町の身元不明の死体検案書も、鈴木教授が作成した。「灰化したわずかな骨片」との記載があるが、個々の骨のことは覚えていないという。ただし、こう強調した。
「性別どころか、人数も判断できないケースが多々あった」
神戸大医学部の上野易弘教授は、須磨区大黒町五丁目の身元不明の死者一人を検案した。上野教授は詳しい記録を残しており、身元不明になった経緯が分かった。
当初、アパート跡で見つかった焼骨を警察は三人分と判断し、三つに分けた。だが、骨の量は少なく、上野教授は「三人分とは限らない」とメモを残した。やがて二人は身元が判明。背骨の一部と部位不明の骨の計二個が残り、身元不明死者一人の遺骨とされた。
上野教授は指摘する。
「一人分の骨かも知れなくても、一メートルも離れて散らばっていると、便宜的に複数人分に分けることがある。あとで、別の人もそこで死んでいたと分かると困りますから」
◆
鶴林寺常行堂。
骨つぼの白い布には、七人の名前だけが墨書されていた。すべて身元の判明した死者の名前だった。
2004/6/4