身元不明の死者に該当者はいたのか-。生前の姿を探すのは容易ではなかった。しかし、一人だけ、この人に違いないと思われるケースがある。
神戸市長田区水笠通五丁目に住んでいた中島清子さん=当時(78)。一九九五年六月、「宙に浮く死亡確認」との見出しで中島さんの記事が神戸新聞に掲載された。
アパートの二階に部屋があった。地震直後、助けに来た人が呼んでも、返事はなかった。火が迫り、崩れたアパートはあっけなく焼けた。
真下の女性の部屋跡で骨が見つかった。女性も中島さんも消息を絶っていたが、骨は少く、監察医は一人分と検案した。
一階の女性は、親族が申述書を添えて死亡届を出し、遺骨のないまま震災死と認められた。身寄りのない中島さんは、死亡届が出されず、戸籍上は生き続けている-。
九年前の記事は、そう伝えた。今も状況は変わっていない。焼骨も誰のものか特定できず、身元不明のままになった。
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神戸・東遊園地の「慰霊と復興のモニュメント」に、震災死者の名が刻まれている。そこに中島さんの銘版の掲示を望む老夫婦に会えた。
夫(78)は中島さんの母親に育てられた。血縁ではないが、生後すぐに両親を亡くし、預けられたという。夫は妻(75)と結婚するまで、中島さんの実家で過ごした。
中島さんは面長の美人だった。三味線を弾いて生計を立てた時期もあった。母親の死後、蓄えをだまし取られたという。夫婦の記憶では、それをきっかけにアルコールにおぼれ始めた。金も無心された。震災の何年も前に、夫婦は中島さんと交流を絶った。
すさんだ生活の様子を聞きながら、記事にしていいのか迷った。紹介すると決めたのは、晩年の姿を知ったからだ。
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中島さんは神戸市長田区内のアパートを転々とし、ゴム会社で働くようになった。そこで親しくなった田中トモエさん(74)の勧めで一九七七年、創価学会に入信した。そのころは、狭い部屋に酒ビンが何本も転がっていた。
しかし、酔って階段を落ちたのを機に自ら酒を断った。田中さんら仲間が励ました。週二回、会合に出席し、信者の人の輪の中に溶け込んだ。
「人を笑わせるのが好きだった」「他人の悪口を言わない人」。晩年の中島さんは、そんなふうに記憶されている。
中島さんと絶縁した夫婦が、彼女の死を知ったのは震災の年の秋。田中さんが知らせた。夫婦は新聞の震災死者名簿に目を凝らしていたが、中島さんの名はなく、無事と思っていた。
「天涯孤独な人。お世話になった人やのに、最後はすげなくしてしまった。せめて名前は残しといてあげたい」
都会の片隅で懸命に生きた一人の女性。その生と死を、私たちも記録したいと思った。
2004/6/5