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震災10年 守れ いのちを 第3部 史上最大の派遣

(5)水 ニーズ探りながら支援
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 震災四日目の一月二十日午前七時すぎ。民放ラジオで、陸上自衛隊中部方面総監部の広報担当者が呼び掛けた。

 「神戸市中央区、東灘区の埠頭(ふとう)に、海上自衛隊の船が十隻ほど入っています。水を補給します」

 総量約千五百トン。生命維持に必要な一日三リットルなら、五十万人分になる。その水は十八日朝、神戸に着いていたが、十九日までの給水量は百分の一。指揮を執る海上自衛隊呉地方総監部は、市民へのPRに手をこまねいていた。

 「宝の持ち腐れだ」。陸自の拠点となった神戸市灘区の王子公園に詰めていた海自阪神基地隊(同市東灘区)の西村圭佑副長=当時=(61)が動いた。指揮系統は別だが、広報態勢が整っていた陸自に接岸場所のメモを渡し、メディアを通じた広報を頼んだ。

 二十日、給水量は前日の十倍を超える二百二十トンに激増。以後、自治体や自衛隊の給水車への補給基地ともなった。神戸市水道局も「想定していなかった」という海自の給水は、約三カ月で約二万五千トンに達した。

 自衛隊が震災で最大の人員を投入したのは、人命救出ではなく、給水などの生活支援や倒壊家屋の処理だった。中でも、被災者が切実に求めたのは「水」。史上最大の活動現場には、さまざまな混乱と葛藤(かっとう)があった。

 陸自が全国から集めた給水機材の約九割は、一トントレーラー。本来、部隊用の給水を前提としているため、容量は小さい。大渋滞の中、何時間かけて市民のもとにたどり着いても、二十-三十分で空になる。

 陸自第三特科連隊の西剛司二尉(32)は「もっと大きな車で来られへんのか」と、何度もば声を浴びた。自分の水筒の水やカンパンまで、被災者に差し出した。テントも渡した。最初の数日は車両の下などで仮眠をとった。

 宿営地の確保などができなければ、「自己完結型」の活動は難しい。隊員たちは被災者の視線という予想外の“重圧”の中、食事やトイレもままならなかった。

 自衛隊の活動内容は、兵庫県からの「派遣要請書」に明記される。しかし、その書類が出されたのは、地震の十一日後。日々変わる被災者のニーズを探りながら、動くしかなかった。

 地震から数日後、第三特科連隊の林政夫連隊長=当時=(56)は、隊員に「今したいことは何か」と聞いてみた。「風呂に入りたい」。一人がぽつりと漏らした。同じころ、王子公園にいた海自阪神基地隊の仲摩徹弥司令=同=(60)も、陸自幹部が何気なく「風呂があれば(被災者は)落ち着くだろうな」と、つぶやくのを聞いた。

 陸自には、組み立て式の野外風呂がある。問題は湯の調達だった。仲摩司令は「水と蒸気なら船にある」と答えた。一月二十四日、神戸港第一突堤に最初の風呂がオープン。行列ができた。以後、避難所など二十一カ所で、延べ五十一万人が入浴した。

 災害派遣が終わる四月二十七日までの活動は多岐にわたった。

 初の試みとなった被災者向けの風呂をはじめ、埠頭の整備、粗大ごみの処理、がれき撤去中に発見された不発弾処理、音楽隊の演奏…。海自は、艦艇を陸自隊員の宿泊場所として提供した。異例の後方支援だった。

 この経験を機に、自衛隊の災害派遣をめぐる制度は、根本から見直されることになった。

2004/9/8

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