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震災10年 守れ いのちを 第3部 史上最大の派遣

(4)指揮 前例ない海自の陸上隊
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 その基地の存在は、市民にさえあまり知られていなかった。

 神戸市東灘区魚崎浜町。「第三工区」と呼ばれる埋め立て地南端にある海上自衛隊阪神基地隊。神戸に拠点を置く唯一の自衛隊部隊だ。地震があった一月十七日、約三万平方メートルもの敷地は液状化に見舞われ、機能まひに陥った。

 基地隊トップだった仲摩徹弥司令(60)=現・第一阪急ホテルズ専務=は午前七時半ごろ、官舎から徒歩でたどり着いた。神戸にいた隊員約百八十人のうち、集まっていたのは約四十人。「この数で出ても、何もできない」。近傍派遣はしないと腹に決めた。

 そのころ、広島県呉市の呉地方総監部では、輸送艦「ゆら」の出港準備が進んでいた。午前九時ごろに出港すると聞いた仲摩司令は、神戸の救援を担当する陸上自衛隊第三特科連隊(兵庫県姫路市)の林政夫連隊長=当時=(56)にすぐさま連絡した。「飾磨港に『ゆら』が寄る。必要なら使ってくれ」。林連隊長は、かつて東京の統合幕僚会議で共に働いた後輩だった。

 「ゆら」は夕刻、飾磨沖に到着した。姫路の部隊は神戸入りした後だったが、神戸市灘区の王子公園で指揮に就いた林連隊長から、仲摩司令に窮状を訴える連絡が入った。「人が足りない」

 その日、神戸入りした第三特科連隊の隊員は約四百人。神戸全体を救援するには、あまりにも少なかった。

 「十八日朝なら、二百人出せる。思うように使ってくれ」と応じた。呉や横須賀(神奈川県)から神戸に向かっていた艦船、神戸の造船所でドック入りしていた潜水艦の乗員らのうち、集められる人員をとっさにはじいた。

 海自にとって、前例のない「陸上派遣隊」の結成だった。救出機材はほとんどない。陸の地図もない。白い脚半に青い作業着姿の隊員は、陸自以上の軽装備でがれきの山に向かった。

 呉から到着した補給艦「さがみ」の乗員だった村上光広二曹(41)は「焼け跡に入ると、熱で靴の裏が溶けた」。掃海艇「とりしま」の乗員だった遠藤隆史一曹(51)は、船にあったバールやハンマーを手に現場へ向かった。

 海自の人命救出活動は四日間で、延べ約八百人が出動。八人を救出、十七遺体を収容した。

 指揮系統が厳密に決められた自衛隊で、海自隊員の活動を陸自に委ねたことは異例だった。仲摩司令に、海上幕僚監部(東京)からは「海自の自主性はどうなる」と怒りの電話があった。

 震災四年後、それまで治安出動などに限られていた陸海空の「統合運用」が、大規模災害時にもできるよう法改正された。有事への対応を視野に入れ、二〇〇五年度末には、統合運用を基本とする大規模な組織改正が予定されている。阪神基地など海自の拠点にも、陸上活動を想定したチェーンソーやジャッキ、底の厚い靴などが常備された。

 しかし、仲摩さんには、震災の教訓の継承はまだ不十分に見える。震災当日、東京からは「給料の遅配は許されない」「官舎の被害を報告せよ」など、人命救出に最優先であたる時期とは思えない指示が相次いだ。

 「すべての持ち場がマニュアルどおりに動けば、そうなってしまう。重要なのは現場にいる者の判断。それが理解されているだろうか」

2004/9/7

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