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震災10年 守れ いのちを 第3部 史上最大の派遣

(1)涙 「自衛隊の転機だった」
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近畿など二府十九県を管轄する陸上自衛隊中部方面隊(総監部・伊丹市)。阪神・淡路大震災で活動した自衛隊員は、大半がこの方面隊の傘下だった。

 トップの松島悠佐(ゆうすけ)総監(65)=現・ダイキン工業顧問=は、「午前五時四十六分」の揺れを感じ、寝間着のまま庭に飛び出した。昭和初期に建てられた木造平屋の官舎は、壁が傾いた。

 午前六時二十分ごろ、総監部から部下が駆け付けた。主要な幕僚が集まりつつあるとの報告を受け、午前六時半、全部隊に非常勤務態勢を命じた。

 百一日間に及ぶ災害派遣活動の始まりだった。

 「(初動で)何をぼやぼやしていたのか、危機管理の意識がない-と、われわれからすれば心外な批判が相次いだ」

 一線を退いた松島氏が、当時を振り返る。

 自衛隊は、災害発生と同時に出動することができない組織だった。緊急時には自主派遣もできるが、知事からの災害派遣要請が、原則必要となる。

 震災十日目に記者会見があった。

 「出動準備を整えて情報収集し、部隊展開を考える。時間は必要。でも理解してもらえない。何度も説明しているうち、情けなくて、ふっと涙がこぼれた」

 松島氏の涙は謝罪の表れとして、テレビニュースで全国に流れた。

 「自衛隊OBなどからは『間違っていないのに何で謝るんだ!』というおしかりの電話を何本も受けた。対外的に釈明はしなかった。何を言っても言い訳になってしまうと思った」

 午前十時だったとされる派遣要請前、救助活動は始まっていた。駐屯地の近隣に限って認められていた「近傍派遣」で、伊丹、西宮市内へ部隊が出動した。ただ、警察や消防に比べると、はるかに拠点は少ない。被災地全域への展開には時間がかかり、当初、市民の印象も薄かった。

 松島氏自身、「想定通りにいかなかったこともある」と認める。大渋滞に巻き込まれ、結果的に部隊が被災地に入るのが遅くなった、と。

 隊員の中には「来るのが遅い」と言われ、石を投げられた者もいた。

 被災地で活動した自衛隊員は、陸海空合わせ、延べ二百二十四万人に上る。同じ期間でみると、警察は約百三十五万人だった。

 しかし、救い出した命は、自衛隊百六十五人。警察三千四百九十五人。この点について、松島氏の歯切れは悪い。

 「警察や消防と一緒に活動した地域もあり、どの機関が何人救出した、ということに意味は感じない。警察や消防より少ない救出者数を『初動の遅れ』と結び付ける批判もあった。でも、数字に対する評価を求められても、『そうですか』としか答えられない」

 現場の隊員たちには、救助資機材が質量ともに不足していた。助けようにも、助けることができず、立ち尽くす隊員たちがいた。

 自治体との連携も足りなかった。普段から疎遠だったため、被害把握にも時間がかかった。自治体側に、自衛隊への「アレルギー」があった。

 「生活支援、復旧支援も含め、市民生活に直接入り込んで、できることは何でもやった。市民が次第に感謝を表してくれるようになった。国民が初めて、自衛隊に期待を寄せてくれるようになった。その意味で、阪神・淡路は大きな転機だった」

 この組織の複雑な一面が、松島氏の言葉に垣間見えた。

    ◆

 阪神・淡路大震災は、自衛隊史上、最大の災害派遣となった。課題を多く残した一方、存在感を強烈に示し、市民や自治体との距離感は変わった。災害時の自衛隊の役割を考える。

2004/9/3

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