火の始末を注意しに来たのが最初だった。神戸市長田区長楽町で黒板製造会社を営む河合節二さん(43)は、夜警の帰り、カトリック鷹取教会(現・たかとり教会)でたき火にあたるのが日課になった。勧められて、一杯引っかけることも。
野田北部まちづくり協議会の夜警は阪神・淡路大震災の五日後から九十日間続き、河合さんは兄の俊造さんとともに参加した。夜警をきっかけに河合さんは協議会の若手の核となり、一方で、神父の神田裕さん(46)やボランティアのタローたちとも親しくなった。
その縁で、被災した倉庫の跡地に置くコンテナに絵をかいてもらった。
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一九九五年春、鷹取周辺の更地にはプレハブの仮設店舗が建ち始めた。その壁を原始人や恐竜が駆け回った。教会に住んでいた画家和田耕一さん(63)がボランティアたちとともに、赤や黄、青のペンキで描いた。
きっかけは顔なじみの店主の依頼だった。「焼け跡に真っ白のプレハブは照れくさい」と、絵を描くように頼まれた。「亡くなった子らが夜に目を覚ましても、こんな更地ばかりじゃ寂しいやろな」。そんな話も店主は言い添えたという。和田さんは「おもちゃ箱をひっくり返したような絵をかこう」と考えた。
どうして原始人なのか。地震直後、人々は水道管の破裂を探して水をくみ、分け合った。たき火であぶって、食事をし、勇気を得た。「みんな原始人みたいに力を合わせて生きた。あの気持ちを大事にしたかった」
注文が次々舞い込み、五十七カ所に描いた。和田さんの描いた輪郭に、ボランティアや、飛び入りの住民が色を塗った。
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河合さんのコンテナには、夫婦と息子二人、それに兄俊造さんが原始人の姿で登場した。ひとり裸にされた俊造さんは「なんでおれだけ」と、ちょっと機嫌が悪かった。五歳だった長男彰一君は、そこに引っ越すのだと勘違いして「どうやって寝るん?」と不安そうだった。
店の再建が進むと、仮設店舗とともに原始人も姿を消していった。「悲しいなぁ」と嘆くボランティアに、和田さんは怒鳴った。「あほ。絵がなくなるんが、復興やろ」
河合さんはコンテナを倉庫として使い続けている。震災十年を迎え、少し心が揺れた。「一区切りつけよう」「忘れたらあかん」-。
〇一年、俊造さんが病気で亡くなった。ショックだった。兄の思い出とともにコンテナがある。炎天下にペンキを塗った若者の顔も思い出す。
「せっかく今もあるんやから」
河合さんは、できる限り残そう、と思う。
現在、原始人の絵は四カ所だけになった。
2005/4/23