カトリックたかとり教会の救援基地で、語り継がれた“物語”がある。
一九九五年春、「雨漏りする」という独り暮らしのおじいさんがいた。「ベイビー」と呼ばれた青木優尚(まさなお)さん(29)らゴリラ隊が二階の屋根にブルーシートを張りに出向いた。数日して「まだ漏る」と連絡があって再出動。屋根一面に張り直した。ところが、また「具合が悪い」という苦情。漏るはずがないのに、依頼は繰り返された。
行くたび、なぜかオロナミンCを飲ませてくれるのはいいとして、無理な注文をし、ふらつく足で屋根に上って命令しようとするからシスターの是枝邦子さん(64)が引き留め役になった。
ゴリラ隊にも、「またか」「ボランティアって何なん」と悩む声が出てきたとき、「おれら、じいちゃんの心のすき間にもブルーシートを張りに行ってるんやで」と話したボランティアがいた。
神父の神田裕さん(46)は「物だけでなく心を修理しているとの思いが皆を支えた」と説明する。
何度も通ったベイビーは、とくに気に入られ、「家も土地もおまえにやる」と真顔で言われた。「じいちゃん、寂しかったんやろな」と思う。
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ベイビーは九五年九月、休学していた鹿児島大学に戻った。鷹取のボランティア仲間の朋子さんと二〇〇二年に結婚。今は兵庫県内の高校で教員をしている。「鷹取の経験を生徒たちに伝えたい」という。
ゴリラ隊は、被災地という「非日常」の場で活躍した。命綱を腰にまいて屋根に上り、まず家の解体をした。仮設住宅用の踏み台などの制作もした。しかし「日常」に戻るにつれ仕事は減った。リーダーの画家和田耕一さん(63)は、震災二年の日に救援基地を去る。
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震災の年は「ボランティア元年」と呼ばれた。かつてない多くのボランティアが支援のため、被災地に入った。前例のない分、自分自身で判断しなければならない場面があり、若者らは試行錯誤した。ときに混乱し、決して効率的でなかった。
十年を経て新潟県中越地震、福岡県西方沖地震が相次いだ。すぐにボランティアセンターが開設され、ボランティアの効率的な運用を図り、すべきこと、すべきでないことが明示された。福岡市災害ボランティアセンターのホームページは、「ボランティアによる支援ができない内容」として「危険な活動(屋根の上にブルーシートを張るなど)」を挙げている。
「何でもあり、が魅力だった」と神田さんは、神戸の「非日常」を振り返る。「ボランティアのコーディネートは必要。でも、管理と裏腹で難しい」。そんな思いを抱いている。
2005/4/25