ベトナム人の家族の風景は、日本人とどこか違ってみえる。個人差はあるにしても「家族が第一」の思いが強い。
阪神・淡路大震災後の神戸で被災者を支援した神父のファム・ディン・ソンさん(41)は、十七歳のとき、ベトナムを脱出した。兄弟四人で準備したが、出港時の混乱で、乗船できたのは彼一人だった。その木造船が漂流する。死の恐怖に涙がとめどなくこぼれた。でも、「船に乗れなかった兄弟は助かる。死ぬのは僕だけですむ」と気づいたとき、涙が止まった。心が落ち着いたという。
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たかとり教会の信徒、ブ・ユイ・ルアンさんは八人の子の父親だ。一九四三年生まれだけれど、書類上は四六年生まれ。ベトナムでは当時、兵役逃れに出生の年を遅らせて申告したという。
死を覚悟した経験がある。最初がベトナム戦争に徴兵されたとき。次が八一年、難民として家族全員で乗った船が漂流したとき。どちらの方が恐ろしかったか、問うと答えはすぐ返ってきた。
「兵隊のときは死んでも自分だけ。船の中は怖かった。家族皆が死ぬ」
三度目が震災だ。神戸ではゴム工場で働いていた。地震でマンションが全壊し、鷹取中学で避難生活をした。
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ルアンさんの三女トゥイさん(27)と、会社員の浅岡康さん(28)は〇四年二月、教会のペーパードームたかとりで結婚式を挙げた。会社のある奈良市に住んでいる。
出会ったのは震災の年の避難所。明石市の高校三年生だった康さんは、震災で休校の間、友達と鷹取中学でボランティアをした。「そんなに熱心じゃなかった」が、物資の搬入や避難者の肩もみをした。技術室にいたルアンさんの肩をもみ、家族と親しくなった。
トゥイさんは、避難所でのベトナム人同士の口論が嫌だった。ベトナム人社会との付き合いには消極的になった。
短大を卒業し、結婚するまで向井杏樹(あき)という通称名で銀行に勤めた。本名で就職したが、窓口に座ると、名札を見た人に聞かれるのが嫌で、高校のとき同級生と考えた「かっこいい名前」に変えた。同級生に「好きな名前をつけられるんや」とうらやましがられた。
〇四年八月、長男の勇(いさみ)ちゃんが生まれた。“ベトナム的なもの”を子どもに伝えたいか、トゥイさんに尋ねた。
「習慣や言葉に興味を持ってくれたら、うれしい。一番伝えたいのは、ご飯を皆そろって食べること。家族一緒に食べた方が、楽しいでしょ」
自分がそう育った。いつからか日本人の家庭はそうでないらしいと気づいた。康さんは今、幸い帰宅が遅くならない。夕げの食卓を三人で囲む。
康さんは、震災をきっかけに出合った「ベトナム」が心地いい。
2005/4/24