「こんな死に方をするんか」。突き上げる揺れの中、頭に浮かんだのは、あきらめにも似た思いだった。
神戸市垂水区のマンション1階で阪神・淡路大震災に遭った。新聞記者を辞め、当時はフリーライター。明け方に大きな締め切りを乗り越えたばかりだった。
揺れが収まり、自分が無事だと分かった時は思わず「うそやろ」とつぶやいた。あの日以来ずっと、震災で生死が分かたれた意味や、生き残った者が背負ってしまった「後ろめたさ」について考えてきた。
2004年、投資ファンドをテーマにした小説「ハゲタカ」でデビューした。次作の構想を聞かれるたびに「阪神・淡路を書きたい」と言い続けたが、ヒットした「ハゲタカ」のような作品を期待する編集者には、相手にされなかった。
そして、原発を扱う連載小説の最終回を入稿する直前、東日本大震災が起きた。これは巡り合わせだ。あの時は無力だったが、今回は逃げずに向き合おう。そう腹をくくった。
今年3月、阪神・淡路を経験した神戸の教師が、東北の被災地に赴任して子どもたちと交流する短編小説集を出した。あえて情緒的に、今生きている人に必要なメッセージを書いた。「生きてていいんや」。ようやく震災というライフワークのスタート地点に立てた。
(聞き手・黒川裕生)
◇ ◇
阪神・淡路大震災当時、神戸市垂水区に住んでいた。
同志社大学卒業後、記者として2年半働いた読売新聞社を辞め、フリーライターになった。1993年から垂水区のマンションに住んでいた。95年1月17日は、仕事を終えて午前5時15分にベッドに入ったが、ごう音で目が覚めた。
その時の記憶は。
空襲か、トレーラーが激突したか、と混乱した。突き上げるような揺れが止まらず、ようやく地震だと思い至った。大阪で生まれ育ち、大地震を経験したことはなかった。だが不思議と冷静で、天井を見つめながら「このまま死ぬのか」と観念した。
生き残った人と亡くなった人の「差」は何なのか。あの日以来、答えのない問いが心に深く刻まれた。
デビュー作「ハゲタカ」はドラマや映画になり、新しい経済小説の旗手として注目を集めた。一方で、阪神・淡路をテーマに作品を書きたいという思いを抱き続けていた。
書きたいという思いは強かったが、いざ「何を書くのか」と聞かれると、自分に明確な答えがなかったのも事実だ。
「今は目の前の仕事を」と執筆に没頭していた時、東日本大震災が起きた。折しも原発を題材にした「コラプティオ」という連載小説の最終回を入稿する直前。急きょ福島第1原発事故を盛り込んだ内容に書き直し、単行本化の際に全面改訂した。今度は震災から絶対逃げないと決めた。
新刊「そして、星の輝く夜がくる」は東北の被災地が舞台。初めて震災と正面から向き合った。
「コラプティオ」の作業で余力は1グラムもなかったが、出版社からの依頼に「やる」と即答した。
テレビや新聞で見る被災地の子どもが「元気すぎる」のが気になった。「怖い時、つらい時はそう言わんと」。そんな思いを、阪神・淡路を経験して東北に赴任した主人公の小学校教諭に託した。「社会派」の書き方を封印し、あえて情緒的に「生きてていいんや」というメッセージを込めた。阪神・淡路に対するど真ん中の答えではないが、19年かけてたどり着いた自分なりの最初の回答だ。
震災を「ライフワーク」と明言している。
「そして-」を書いたことで、震災を少し客観的に見られるようになった。ただ、阪神・淡路については「今も住んでいる街に、お前は何を言うか」という短刀を首元に突き付けられていると自覚している。
身内を誰も亡くしていない自分は行くべきではない-と思っていた神戸・東遊園地のつどいに、今年1月17日、初めて参加した。「忘れないで」という祈りではなく「忘れない」という決意のようなものが満ちていた。19年かけてこの地に根付いてきたものの重みに、思わず襟を正した。長い時間がかかったが、私と阪神・淡路との関わりはここから始まる。
記事・黒川裕生 写真・三浦拓也
まやま・じん 1962年、大阪府出身。読売新聞記者、フリーライターを経て、2004年「ハゲタカ」で作家デビュー。エネルギー問題にも関心が高く、地熱発電に関する著書もある。神戸市垂水区在住。
2014/5/18