1938年の阪神大水害、45年の原爆、敗戦。焼け野原の神戸で風呂釜の事業を始め、95年に阪神・淡路大震災を体験した。
87年の人生を振り返って思う。戦争だけは絶対にやっちゃいかん。災害は人間の命が守られるよう最大限努力せよ。これに尽きる。
69年前、広島・江田島の海軍兵学校の講堂で訓話を受けているとき、閃光(せんこう)が走った。対岸の広島が真っ黒な雲に覆われた。広島駅に向かう途中で見たのは、焼けただれた人、傷ついた人…。貨物列車に乗り、故郷の高砂を目指した。
神戸でゼロから事業を起こし、給湯器大手になった。地震がないと思い込んでいたこの街が激震にやられた。2011年には東日本大震災が東北を襲った。
行政は「安全」を強調してきたが、適当なところでごまかしてきたのではないか。だから福島第1原発事故のようにドーンと来る。津波に襲われるような海岸べりに原発を置いていたから惨状が広がった。
日本に生まれた以上、災害は宿命、避けられないと腹をくくり、いかに被害を最小限に食い止めるか真剣に考えるべきだ。
ただ、天災は防ぎ得ないが、戦争は防げる。きれいごとではない。戦争の本当の怖さは死んだ人にしか分からない。だからそこまで追い込まれる社会にしてはならぬ。戦後50年の年に来た震災。生きているわれわれが子孫のために平和を維持し、安全で良い国を残してやらないかん。(聞き手・加藤正文)
【英知集め被害最小限に ルミナリエは鎮魂と希望の原点】
阪神・淡路大震災のような危機のときは、経営者の判断が問われる。
震災の翌日、東京で千人近くを集める代理店会を開く予定だった。しかし、神戸・旧居留地の本社ビルは全壊。中止する段取りでいると、「明石の工場は稼働できる」との情報が入った。うちはメーカーだ。工場が動くなら開催しよう。1分で決断した。
東京に乗り込んで宣言した。「ノーリツは生きている。製品は送る」。これを断行したから今がある。取引先はいったん離れたら戻らない。一日も早く生産を再開しないことにはつぶされてしまう。競合する他社は健在なのだから。
このとき実感した。企業は自力で生き抜くしかない。だれも助けてくれない。これが根本だと。
当時、神戸商工会議所の副会頭。経済復興を推し進める立場だった。
役人や学者が大勢来て、ものものしい会議をやる。復興プロジェクトが大きなスライドを使って説明される。聞いていて「何を夢物語みたいなことを」と腹が立った。思わず発言した。「こんなことやっている場合か。がれきを片付け、モノが動くようにしろ」
上海・長江交易促進などいろいろな復興計画が出てきた。しかし戦争と一緒で、被災地は壊滅状態。事業の再生は自分でやらなあかんが、政府は復旧に全力を挙げよ、インフラ整備や中小企業の金融支援ぐらい死に物狂いでやれ。そんな思いだった。
被災地を盛り上げるため、経済界は「神戸ルミナリエ」を推進した。
1995年の暮れ。最初のルミナリエの式典に出た。光がともった瞬間、真っ暗だったがれきの街が温かく照らされた。涙が出た。その感動があったので次年度から推進役を引き受けた。資金を集めるために地元企業を回った。一人で100社以上を訪問し、経営者に直談判した。
幸いなことに20年間続き、神戸の風物詩になった。最近、今のやり方を見直そうとの意見が出ている。協賛金が集まらないという声もある。そもそも金は集まりにくいものだ。担当者に行かせると、相手も簡単に断ってくる。信念を持つトップが情熱を伝えることが大切だ。「鎮魂と希望」の明かりを見た方々が感動してくれる。その原点を大切にしてもらいたい。
戦争と災害を体験した世代として何を伝えるか。
戦後の神戸で花開いたのは生活文化産業だ。鬼塚喜八郎さん(アシックス創業者)や木口衞(まもる)さん(ワールド創業者)、田崎俊作さん(田崎真珠創業者)らが仕事に打ち込めたのも、日本が戦争をせず、平和だったからだ。平和でなかったら、うちの風呂釜なんてだれが買ってくれることか。
人間の力で戦争は避けられるが、災害はいつ地球から飛び出してくるか分からない。私たちは阪神・淡路大震災以降、徹底して「安全」を追求してきたと言えるだろうか。東日本大震災と原発事故の惨事を見ると、何もやれていなかったように感じる。
その反省に立って起こりうる被害を直視し、できる方策をすべて取る。これは人間の英知だ。
記事・加藤正文
写真・辰巳直之
おおた・としろう 1927年、姫路市出身。海軍兵学校卒。50年能率風呂商会、51年能率風呂工業(現ノーリツ)設立。専務、社長、会長などを経て2004年から現職。94~04年、神戸商工会議所副会頭。神戸市東灘区在住。
2014/11/16