阪神・淡路大震災から10年となった2005年以降、1月17日は神戸市長田区を訪れている。04年10月23日、新潟県中越地震が起こった時、いち早く駆けつけてくれたのが長田の人たちだったからだ。
通い続けて感じることは、神戸が「普通の生活の香り」がする街になったということ。震災から10年のころは、街並みはきれいになっても「被災地」が前面に出ていた。雰囲気がずいぶん変わったと感じる。
それでも、神戸の人たちは震災を決して忘れてはいない。何年たっても、家族や仲間を亡くした悲しみというものは消えない。
阪神・淡路と中越では規模も状況も違った。神戸で何が問題だったのか、すべてを把握しているわけでもない。だが、新潟県山古志村(現長岡市)の村長として、住民全員を村外に避難させ、避難所、仮設住宅を集落ごとに組織した時、「神戸ではできなかったことができた」と評価された。
山古志を守るため、コミュニティーにこだわった結果だった。中山間地では一度穴があくと新しく住む人は少ない。何百年もの歴史がある古里を守るためには、14ある集落を守らなければならなかった。
南海トラフ巨大地震などの災害が危惧される。コミュニティーが共助の基礎となるのは都市部も同じ。隣に人がいることを心強く思うことができれば、それだけでとても強い地域になる。(聞き手・上田勇紀)
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阪神・淡路大震災当時は、新潟県山古志村(現長岡市)の村議だった。
朝、テレビで地震発生を知った。阪神高速道路が倒れ、神戸市長田区が火に包まれていた。「地震でこんなことになるんかな」というのが率直な印象。その後、山古志が震災に見舞われるとは思いもしなかった。
阪神・淡路から10年目の2004年10月23日、新潟県中越地震が発生。最大震度7、死者は関連死を含めて68人に上り、山古志村でも5人が亡くなった。
山間部の山古志村は道路が寸断されて孤立し、生活サービスをまったく提供できない状況だった。数カ月では暮らしを取り戻せないと思い、全村避難を決意した。地震から2日後の10月25日、午後3時にヘリコプターで避難を始めた。3時間後、新潟県に「避難完了」と報告すると、「そんなに早く分かるわけがない」と言われた。でも、約2200人の村民が互いを知り、心配し合っていたからこそ可能だった。
復興過程では、コミュニティーの維持にこだわり続けた。
都市部の神戸と同じように抽選で住む場所を決めると、山古志のコミュニティーはつぶれてしまうと思った。だから全村避難の後、14ある集落ごとに避難所を再編し、仮設住宅も集落ごとにまとめた。災害公営住宅も同じようにした。ばらばらになると、生きていけない人がいる。高齢者をはじめ、助けが必要な人たちを集落で守りながら生きていく必要があった。
中越地震から10年。山古志の現状は。
「地震の山古志」で、ずっと生きていけるわけではないと言い続けてきた。中山間地で暮らす魅力や意義を見いだせなければ、前に進めない。この10年で住民の意識は大きく変わった。人口は地震前の約半数になったが、「自分たちの古里を見てください」と胸を張れるようになった。美しい棚田があり、ニシキゴイが泳ぐ。自分たちの古里が持つ魅力に気付いた。
東日本大震災後、復興政務官となり、今年9月には復興副大臣に就任した。目指す復興の姿とは。
東日本大震災から3年半が過ぎた東北では、被災者が仮設住宅から災害公営住宅へと移っている。住宅と周辺地域とのコミュニティーをどのようにつくっていくかが課題だ。土地のかさ上げや区画整理などで、復興には時間がかかるが、一人一人が「自分はいつ、どこへ向かう」という目標を持てるように着実に進めていきたい。
都市ではコミュニティーが希薄になりがちだが、共助をどう進めるべきか。
農村では、葬式も結婚式もすべて「お互いさま」。山古志では全員参加で草を刈り、神社を掃除する。それが、集落を維持していくための大きな力となり、災害時の共助にもつながる。神戸でも東京でも、「いざというときにはこの人に助けてもらうのだ」と思えば、普段から頭を下げたり、あいさつをしたりするはずだ。少しの意識の変化で、コミュニティーはきっと強くなる。
記事・写真 上田勇紀
ながしま・ただよし 1951年、新潟県山古志村生まれ。東洋大卒。同村村長2期目の2004年、新潟県中越地震が発生。長岡市との合併に伴って退任後、05年9月から衆議院議員。現在3期目。今年9月から復興副大臣。
2014/10/19