阪神・淡路大震災後、あしなが育英会(本部・東京)が被災地で始めた遺児支援は、あえて言うなら「行き当たりばったり」だった。私たちが神戸に来たのは、本来の業務である奨学金事業のためで、遺児の人数を把握する必要があったから。この地にとどまり、長期的なケアに取り組むという発想は全くなかった。
だが、肉親を奪われた遺児の心の傷に触れ、「このまま帰れない」と思った。震災の年の夏、父と妹を亡くした小学5年の男児が黒い虹の絵を描いた。この虹を明るい七色にしたい。そんな思いから生まれたのが、震災遺児の支援拠点「神戸レインボーハウス」(神戸市東灘区)だ。1999年1月に完成した。
国内に先行事例はなく、ケアは手探りだった。ボランティアの協力を得ながら遺児の集いや心のケアのプログラムを重ね、信頼関係を育んだ。
私たちは、災害が起きたときに「親を亡くした子がいるかもしれない」という視点を持つことや、支援の必要性を示すことができた。東日本大震災では、阪神・淡路とは比べものにならないほど多くの遺児支援策があった。あしなが育英会も仙台市など計3カ所にレインボーハウスを建てた。
今年、阪神・淡路の遺児が全員成人した。でも「これで終わり」という感じはしない。彼ら、彼女らが頑張って人生を歩んでいる姿をこれからも見ていたい。神戸レインボーハウスは「いつでも帰ってこられる場所」としてあり続ける。
(聞き手・黒川裕生)
【「続ける」がキーワード 遺児の成長を目にする幸せ】
生後4カ月で阪神・淡路大震災に遭い、母を亡くした短大生浦田楓香さん(20)=神戸市灘区=が今年、成人式を迎えた。
彼女は神戸レインボーハウス(同市東灘区)とつながりが深かった震災遺児の「最後の一人」。遺児が全員成人した今、胸にあるのは、遺児を育てた保護者への尊敬とねぎらいだ。もちろん遺児自身も大変だったと思うが、彼ら、彼女らが幼いころは保護者が代弁者となり、私たちと悩みを共有してきた。そんな遺児家族の声を社会に届けることが、神戸レインボーハウスの役割の一つだった。
あしなが育英会(本部・東京)には震災当初、遺児を長期的に支援する考えはなかった。
私が育英会で働き始めた1993年、会は発足したばかりで、病気や災害で親を失った遺児らへの奨学金貸し付けが主な事業だった。震災後すぐに神戸入りしたのは、「親を亡くした子どもが大勢いるはずだ」と考え、支援金や全国から寄せられた励ましの手紙を手渡すためだった。
ボランティアらの協力で573人の遺児を探し出し、支援金などを手渡した後も神戸にとどまった。
育英会にケアのノウハウはなかったが、遺児が同じ境遇の仲間や職員らと信頼関係を築き、安心して思いを吐き出せる場をつくることを目指した。
遺児が親への手紙を朗読する「今は亡き愛する人を偲(しの)び話しあう会」は、毎年1月に行う大切な行事だ。多くの報道陣が詰め掛けるため、精神的な負担も大きいと思うが、朗読をした子は自身の成長を実感し、「やってよかった」という。ケアは何がプラスに作用するか分からないところもある。
東日本大震災では、阪神・淡路の経験を踏まえ、すぐに動いた。
震災直後から被災地で遺児調査を開始する一方、レインボーハウス建設の準備にも着手した。現在、宮城県の仙台市と石巻市、岩手県陸前高田市の3カ所に設けているが、正直に言うと運営は厳しい。
被災地があまりにも広く、遺児が気軽に訪れることが難しい。東北には大学が少なく、学生ボランティアも思うように集まらない。東北の人々には、育英会に世話になることへの遠慮や、「望まないカウンセリングをさせられる」といった誤解もあると感じる。宿泊付きの行事を増やすなどして、利用しやすい環境を整えなければならない。
阪神・淡路からの20年を振り返って思うことは。
私は10歳の時に父を交通事故で亡くした。中学を卒業するまで、「母も失うのではないか」との恐怖が消えなかった。寂しさ以前に、どう食べていくかという現実的な問題に足がすくんだからだ。震災で両親を一度に亡くした孤児の絶望は想像を絶する。
この20年、幸せだったのは、遺児が「成長」という目に見える形で歳月を感じさせてくれたこと。幼かった遺児と、今では酒を酌み交わせるようになった。「続ける」ことがキーワードの20年だったように思う。東北でもそれは変わらないだろう。
記事・黒川裕生
写真・中西大二
やぎ・としゆき 1969年、千葉県松戸市生まれ。国士舘大卒。92年から1年間、ブラジルで日本語教師を務める。93年からあしなが育英会勤務。神戸、東京(日野市)のレインボーハウスを経て昨年4月から現職。西宮市在住。
2015/2/15