阪神・淡路大震災から20年を経て、街は見違えるように復興した。しかし、震災の傷はさまざまなところに残り、今も立ち上がることができない人々がいると思う。
1995年当時、官邸も、災害対応にあたる国土庁も危機管理体制が十分でなく、初動が遅れた。どれほど責められても弁明の余地はない。ただ、「社会党の首相だから自衛隊の派遣が遅れた」という批判は、そうではない。兵庫県の派遣要請の前から、自衛隊はヘリコプターで被害を確認し、態勢を整えていた。
震災の前年、自民、社会、新党さきがけの連立政権で首相となった。本来、第1党ではない社会党の党首が首相になることはあり得ない。しかし、そういう内閣が生まれるのも、歴史的な必然性がある。特別な役割を課せられているのだと考えた。
95年は戦後50年の節目だった。8月、(過去の植民地支配と侵略を謝罪した)村山談話を発表した。在任中に被爆者援護法も実現した。
その年の夏ごろから、辞める時期を模索していた。もともと過渡的な政権だと思っていた。翌年1月、辞任したときは、内政、外交ともやるべきことはやったという思いだった。
阪神・淡路大震災では、個人の住宅再建への支援を考えたが、「私有財産への公的支援はできない」という意見は根強かった。後に被災者生活再建支援法が成立し、支援制度が前進したことは良かったと思う。
(聞き手・磯辺康子)
【戦争も災害も語り継ぐ 情報発信に課題残した東日本】
10年前にインタビューをしたとき、「毎年1月17日の朝は黙とうしている」と話していた。
今も変わらない。毎年、地震が起きた時刻に自宅で黙とうをささげている。この20年、被災地の皆さんは苦労されたと思う。阪神・淡路大震災は私にとっても忘れられない出来事だ。
発生当時は公邸にいた。
午前6時ごろ、NHKのニュースで知った。京都の震度は出ていたが、神戸の情報はなかった。京都の知人に電話し、「揺れは大きかったが、被害はない」と聞いた。当時、災害対応に当たる国土庁も首相官邸も24時間体制ではなく、初動が遅れた。兵庫県庁や神戸市役所など、現地の組織も被災した。いつ起こるか分からない災害に対し、備えが足りなかった。
16年後の2011年、東日本大震災が起きた。阪神・淡路の教訓は生きたか。
東日本は地震、津波、原発事故が重なり、阪神・淡路とは規模が違うが、政府の対応を見ていると教訓があまり生きていないように見えた。原発事故直後、官邸、原子力安全・保安院(当時)、東京電力の対応がばらばらで、情報が一元化されていなかった。災害時は、国民に対する情報発信を一本化し、安心してもらうことが重要になる。
1994年6月から96年1月まで続いた村山政権。自身で「過渡的な政権」と評する。
衆院議員70人程度の党から総理を出すことは、国会の常道ではあり得ない。ただ、そういう政権が誕生するのも、歴史的な役割があるからだと思った。行政改革などの大きな課題は、安定した政権でなければ取り組めないが、村山政権には戦後50年の節目にけじめをつけるという役割があった。被爆者援護法の制定、村山談話の発表など、あの内閣としての使命は果たしたと考えている。
自身の経験から、国のトップは災害時にどう対応すべきと考えるか。
首相が東京で指揮を執るといっても、実情を一番分かっているのは現場の人間。現場が必要と思うことを重視しなければならない。阪神・淡路大震災の直後、(元副総理の)後藤田正晴さんから「地震は天災だが、復旧・復興はまかり間違えば人災になる」と忠告を受けた。それは今も印象に残っている。
阪神・淡路でも東日本でも、被災者一人一人の生活再建を見据えた支援が不足している。
個人の問題は見えにくく、支援が難しい。阪神・淡路の後、住宅を失った人への支援が必要と感じ、ずいぶん議論したが、「私有財産」という壁は厚かった。その後、最高300万円を支給する被災者生活再建支援法が実現し、兵庫県では、亡くなった貝原俊民・前知事の尽力で住宅再建共済制度が誕生した。こういう制度ができてよかった。
震災から20年。今、思うことは。
日本は戦後70年、平和憲法を持ち、体験者が戦争の記憶を語り継いできた。戦争を知らない者も「二度と繰り返さない」という思いを受け継いできた。自然災害の教訓も、日本全体で学び合っていかなければならない。
記事・磯辺康子
写真・辰巳直之
むらやま・とみいち 1924年、大分市生まれ。明治大専門部卒。大分県議などを経て、72年から衆院議員8選。93年9月、社会党委員長に就任。94年6月、第81代首相に。在任561日。2000年に政界引退。大分市在住。
2014/12/21