名古屋は日本の三男坊。東京と大阪が常に優先され、国からは応援してもらえない。だから、防災・減災も自分でやるしかない。
2010年12月、名古屋大学に「減災連携研究センター」を創設した。産・官・学・民の連携の仲人役。専任教員は6人だが、企業の寄付で運営する研究部門もあり、産業界や自治体などから30人以上が関わってくれている。
昨年3月には、活動拠点となる「減災館」が完成した。研究の場であり、市民が学ぶ場でもある。建物自体を揺らすこともでき、5階建ての全体が耐震技術開発の実験場になっている。
人と防災未来センター(神戸市中央区)が一つの見本になった。ただ、減災館は今後の災害に立ち向かう役割を強く意識し、展示や公開資料も東海地域にこだわっている。発電や給水の設備もあり、災害が起きれば実際に情報集約などの対応拠点になる。
防災・減災で大切なのは「地元愛」。片手間では駄目。必死になって取り組む人が必要だ。その点、名古屋は地元出身者が多いというメリットがある。
20年前の阪神・淡路大震災は、大変なショックだった。自分の家と同じような一軒家が目の前で壊れていた。耐震技術は成熟した分野だと言われていたが、そうではなかった。名古屋には防災の専門家も育っていなかった。
自分たちの街を守るには、まず自ら動く。阪神・淡路を出発点に、地道に取り組んできたつもりだ。
(聞き手・磯辺康子)
【街を守る鍵は「地元愛」】
阪神・淡路大震災が起きたとき、名古屋大学の教壇に立って4年目だった。
震災当日、地元新聞社から同行を依頼され、名古屋から被災地に向かった。倒壊した家々を目の当たりにしてショックを受けた。当時、自分には小さな子が2人いて、まず家族を守るべき親として衝撃を受けた。5年以内に自宅を建て直すと決め、実際にそうした。
大学教員になる前は、建設会社に勤務していた。
原子力発電施設の耐震に関わる研究をしていたが、上司から「耐震はもうすべきことがない。新しい分野を模索せよ」と言われた。大学に移った後も「建築構造は人気がない」と聞かされた。そこに阪神・淡路大震災が起きた。「日本ではあり得ない」と言われていた高速道路の倒壊が現実となり、多くのビルが崩れた。「なぜこれほど壊れるのか」と思った。
そこから動き始めた。
テレビ局から「建物が壊れた理屈を知りたい」と依頼されたのをきっかけに、建物の揺れ方や筋交いの役割を簡単な装置で実験できる教材「ぶるる」を作り、広めてきた。まず大学生を対象にし、市民向けにも力を入れるようになった。
「減災館」も市民の学びの場になっている。
実践に結び付けるには、「理解する」にとどまらず、「納得する」「我がことと思う」というステップが重要。納得してもらうために、体感型の教材を用意する。我がことと思ってもらうために、東海という「地域」にこだわっている。
研究についても、出口の研究、つまり社会に生かすことを重視している。防災教材や耐震補強技術の開発、災害情報の研究などだ。
減災館の開設前から人材育成には力を入れていた。
全国の研究者らを講師に招く市民向けの「防災アカデミー」は、2003年からほぼ毎月開いている。名古屋大学の教員が市民と共に考える「げんさいカフェ」も11年から月1回。東海地方のメディア向け勉強会は、01年から関わっている。
東日本大震災で見えた課題は。
津波も停電も帰宅困難者の問題も、一つ一つの事象は予測されていた。しかし、それらが同時に襲ってきたとき、日本がこれほどもろい、ということが分かっていなかったと思う。この国は縦割りでそれぞれ考える社会になっていて、全体を俯瞰(ふかん)できる人がいない。
どうすれば?
それぞれの地域が、シンクタンクとアゴラ(場)を持つ。東京から知恵をもらうのではなく、自分たちで主体的に考える人材を育てる必要がある。だから、私たちは減災連携研究センターを発足させ、さまざまな人が集って考える減災館という場もつくった。防災・減災は「皆で一緒にやろう」と呼び掛けやすいテーマ。地域の将来を考えるとき、格好の入り口になる。
「出発点」となった阪神・淡路から20年が過ぎた。
名古屋では企業が減災に本気で取り組み始め、防災リーダーの育成も進んできた。減災館は1年で1万5千人が訪れた。地道に続ければ努力は実る。そう感じた20年。私たちの試みを、地域が自立して動く一事例として見てほしい。一足飛びには無理でも、10年あれば対策は進められる。
記事・磯辺 康子
写真・三津山朋彦
ふくわ・のぶお 1957年、名古屋市出身。81年、名古屋大学大学院工学研究科修了。清水建設を経て、91年、同大学工学部助教授。2012年から現職。専門は建築耐震工学。人と防災未来センター(神戸市)上級研究員。
2015/3/15