神戸・三宮の中心部から海側へ歩いて約10分。阪神・淡路大震災で座屈した国道2号浜手バイパスの橋脚が、歩道の横にひっそりと立つ。
むき出しの鉄筋が地震のエネルギーを物語る。震災から2年後、元の場所から約1キロ離れた神戸市中央区新港町の国道2号沿いに移された。しかし、訪れる人はほとんどいない。管理する国土交通省兵庫国道事務所でさえ、存在を知らない職員がいる。
震災の被害を伝える「遺構」が少ない阪神・淡路の被災地。崩れた岸壁を残す神戸港震災メモリアルパーク(同区波止場町)、地震を引き起こした野島断層の保存館(淡路市)などがあるが、被害の甚大さを伝えているとは言い難い。
浜手バイパスの橋脚のように、存在が知られていない遺構もある。
全国の災害遺構を調査する大阪府立大特認助教、石原凌河(りょうが)(26)は「阪神・淡路は被災した土地の利用方針を決めるスピードが速く、建造物の保存についてあまり議論されなかった」と指摘。「市民を巻き込まず、行政が残すと決めた遺構は、伝承にとって重要な『物語』がない」と話す。
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「残すことになった経緯は」「どのように維持しているのか」。阪神・淡路の自治体などに昨年、東日本大震災の被災地から遺構に関する問い合わせが相次いだ。
国によるがれき撤去の期限が今春に迫り、宮城県気仙沼市の内陸に打ち上げられた大型漁船「第18共徳丸」など、津波の恐ろしさを物語る遺構が次々に解体されていた。
復興庁は昨年11月、ようやく各市町村1カ所に限って保存の初期費用を出す支援策を発表した。東北では今も、被災者を巻き込み、保存の是非をめぐる議論が続く。
実は、阪神・淡路でも住民が保存を議論した被災構造物はあった。
神戸市長田区の商店街、西神戸センター街のアーケードだ。直近まで火災が迫り、折れ曲がった柱や、骨組みがむき出しになった屋根が震災7年後まで残っていた。
震災学習で訪れた名古屋市の中学生が衝撃を受ける様子を見て、地元住民らのグループが保存を計画。だが商店街の理解が得られず、復興再開発事業で撤去された。
保存運動に関わった商店主の伊東正和(65)=神戸市長田区=は「維持費をどう確保するかを示せず、生活再建に必死で、十分に話し合う時間もなかった」と振り返る。
近くでは、戦災と震災を耐え抜いた防火壁「神戸の壁」の保存運動も展開されたが、再開発事業で現地保存はかなわず、淡路市に移設された。
震災の傷痕が見えない被災地。復興の証しでもあるのだが、神戸大名誉教授の室崎益輝(よしてる)(69)は言う。「災害の伝承には『本物の力』が大きい。残せなかったのは阪神・淡路の失敗の一つだ」
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都市直下型地震のすさまじさ、生活再建の厳しさ、次の災害への備え…。阪神・淡路大震災が、後世に伝えることは数多い。過去の災害や各地の伝承の取り組みに学びながら、伝える意義と意味を考える。
=敬称略=
(高田康夫)
2014/7/10