毎年5月23日。円山川の河口に近い、豊岡市田結(たい)。住民たちは「防災祈願」などと書かれた竹札を持ち、神社の社殿の周囲を千度回る。「お千度さん」と呼ばれる。
1925(大正14)年のその日、死者428人を出した北但大震災が起きた。震源に近い田結では83戸中82戸が全半壊し、7人が亡くなった。
今も続く慰霊と防災意識の継承。しかし、地震の経験者はほとんどいなくなった。人口は約150人で、震災当時の4割以下。各家庭の火の始末を確認していた婦人消防組は休団した。「集落がなくなれば、災害の伝承どころではない」。区長の島崎邦雄(63)は危機感を募らせる。
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災害が起きるたびに課題となる経験の継承。時代を超えて受け継がれる取り組みが大阪にある。
1854(嘉永7)年に起きた安政南海地震の石碑「大地震両川口津浪記」が立つ大阪市浪速区幸町。住民は余震を恐れて船に乗り、津波にのまれた。1707(宝永4)年の地震の教訓が伝わっていなかったためだ。
石碑には「地震の際には津波が起こるかもしれず、船に乗るな」などの教訓とともに「読みやすいように毎年墨を入れてほしい」と記す。
先人の伝承への強い意志に応え、住民は約160年間、毎年8月の地蔵盆に墨を入れ続ける。碑文は崩し字で読みにくいため、約40年前、そばに解説板も設置。子どもたちは親しみを込めて石碑を「お地蔵さん」と呼ぶ。
「物心がついたころから地蔵盆で石碑に触れており、自然に経験が引き継がれていく」。碑の保存運営委員会委員長、山本善三郎(80)は話す。
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一方で、神戸市東灘区西岡本の野寄(のより)公園にある石碑は対照的だ。
刻まれているのは、1938(昭和13)年の阪神大水害の被害。当時の本山村の犠牲者や流失家屋の数などとともに、「有備無患(備えあれば憂いなし)」の言葉が刻まれる。本山村では11人が死亡し、家屋約2200棟が被災したとある。
ただ、漢文で刻まれた文字は解読が難しい。児童には授業で教えているが、公園利用者の多くは石碑の意味を知らない。
公園近くで生まれ育ち、水害で自宅が土砂に埋まった原田克己(83)は「新しい住民が増え、地域の歴史を知る人が少なくなった」と語る。原田の自宅が焼けた戦災の被害も、若い世代にはほとんど伝わっていない。
阪神・淡路の被災地にある石碑やモニュメントは約300に上る。そこに込められた思いは後世に伝わるのだろうか。
震災で亡くした父の慰霊を契機に、全国のモニュメントを巡る上西勇(87)=神戸市東灘区=は「被害や教訓が具体的に書かれたものが少ない」と嘆く。
来年で震災から20年。ただ碑を残すだけでは、いずれ伝承は絶える。
=敬称略=
(高田康夫)
2014/7/11