企画・連載

(5)尼崎市長 稲村和美

2014/08/17 17:38

 阪神・淡路大震災が起きた1995年は「ボランティア元年」と呼ばれた。当時、神戸大学の学生で、何がボランティアかも分からずに活動した。「元年」は私のような者のための言葉だ。

 泊まり込みで運営に携わった神戸市東灘区の小学校の避難所には、約束事があった。校内でたばこを吸わない、酒を飲まない。当番が掃除をし、食事を配る。

 運営は、被災者、学校、ボランティアの代表者らが毎日話し合って決めた。そこで学んだのは「ルールとは必要に応じて自分たちでつくったり、変えたりするもの」「自分たちで決めたルールは破られない」ということだった。小さな「自治」が確かに存在した。

 震災の約8年後、知人の勧めで兵庫県議選に出たときも、避難所で学んだ「自治」にこだわりたいとの思いがあった。住民自治とは、住民の意思と責任に基づいて行政をすることであり、住民が自発的に地域の政治や行政に参画しなければ実現できない。

 近年、自治体は財政難に直面し、さまざまなサービスの見直しは避けられない。行政だけでなく、住民や事業者の力も含めた「公共力」を育む必要がある。公共力とは、自分たちが住む地域のことは自ら決め、良くしていく力。政治や行政に白紙委任せず、共に考え、取り組むことだ。

(聞き手・長沼隆之)

    ◇    ◇

 阪神・淡路大震災当時、神戸大学法学部の3年生だった。

 奈良市の実家から遠距離通学をしていた。地震が起きたときは、ゼミ論文の締め切りに追われて起きていた。奈良は震度4。テレビにくぎ付けになった。約1週間後、救援物資をリュックサックに詰め、大学を目指して阪急西宮北口駅から歩いた。だが途中で疲れてしまい、芦屋市役所に向かった。市役所は避難所になっていた。

 高校で放送部だった経験を生かし、館内放送を手伝った。短期のボランティアは多かったが、長期間滞在して仕事の割り振りをする人が不足していることに気付いた。大学が長期の休みになった私たちの出番だと考え、いったん自宅に戻った後、神戸に入り直した。

 東灘区の小学校の避難所で活動した。

 たどり着いた御影北小学校は、区内の液化石油ガス(LPG)タンクのガス漏れで、他の地域からも多くの住民が避難してきた。リーダーとして、ボランティアの振り分けなどを担当したが、居心地の悪さがあった。被災もせず、時間も自由な学生だからボランティアができるのに、親と同世代の避難者から「ありがとう」「申し訳ないね」と声を掛けられる。面はゆく、引け目を感じた。

 避難所での経験を通じ、ボランティアの役割を自問した。

 「私が誰かを助ける」のではなく、今起きていることは「私たち」の問題なのだ、と考えるようにした。今は支える立場だが、次は助けてもらうかもしれない。みんなで課題を解決していくことで、引け目を感じずに活動できる。同じ目線で協力し合う。まさに「自治」だった。後輩にも同じ経験を、と震災の4カ月後、大学内に総合ボランティアセンターをつくった。

 政治の道に進んだきっかけは。

 避難所での活動が一段落して直面したのが、被災者の住宅再建の問題だった。義援金だけでは費用は賄えない。ところが、政府は「個人の財産形成につながる」と公金の投入を拒んだ。避難所で親世代の苦労を目の当たりにした私は疑問を感じ、尼崎市議らが集まる勉強会に参加した。税金の使い道や、それを誰が決めているのかということを強烈に意識した。

 霞が関の理屈を変えるには、納税者の合意がいる。合意形成は手間がかかるが、黙っていることは現状追認と同じ。意思決定に関わるべきだとの思いが、政治の道へ踏み出させた。

 「自治の現場」に身を置いて思うことは。

 「新しい公共」の推進を意識している。行政はスリムになるべきだが、公共は大きい方がいい。担い手は「官」でなくてもいい。この20年で、ボランティアやNPOは地域に根付いた。尼崎でも、市民が職員と一緒に市の事業を点検したり、市民らの提案に基づいて市の業務を委託したりと、「公共力」を育む施策を進めている。

 阪神・淡路大震災は、私を変えた。若い人たちは失敗を恐れず、自らの参画と試行錯誤で地域が良くなるという手応え、やりがいを感じてほしい。

 記事・長沼隆之 写真・三浦拓也

 いなむら・かずみ 1972年、大阪府出身。神戸大学大学院修了。証券会社勤務後、兵庫県議2期を経て、2010年12月から現職。共著に「若手知事・市長が政治を変える」。夫、長女と3人暮らし。尼崎市在住。

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