激しく車が行き交う国道2号のすぐそばに、9階建ての復興住宅が見えた。
入り口の郵便受けは、48戸のうち19戸分が閉じられている。空き部屋が増えるたび、住民の坂上久(79)が差し入れ口にテープを張る。
ロビーには、使い込まれたソファ。かつて人が集い、にぎわいを見せたが、座るのは今、坂上のほかにほとんどいない。
「残ってるのは年寄りばっかり。どないもしゃあないわ」
コミュニティ春日野(神戸市中央区)は、1999年に入居が始まった神戸市営復興住宅。被災者に早く住まいを提供するため、民間所有の建物を市が20年の期限付きで借り上げた。
このため、入居者が亡くなっても新たな募集は限定的で、いま29世帯35人が暮らす。ほとんどが独居の高齢者だ。
坂上が仮設住宅から移り住んだ当時は63歳。入居者の中では若手だった。管理人を任された坂上は朝から晩までソファに座り、出入りする住民の顔を必死で覚えた。食事会も、このソファに集まるのが慣例になった。
「あんた、地震の時はどこにおった。避難所はどこやった。仮設は…。みんな、そこから話が始まったんや」
別々の地域から抽選で集まった入居者たち。共通の話題は震災だった。毎晩、酒を酌み交わしながら、被災体験にうなずいた。
住民の死に接することが増えたのはここ数年のことだ。
入居以来、坂上が付けている日誌。2006年2月3日には、「入れ墨があり、小指がなかった」男性が死亡したと書かれている。
最近見ない、という声を聞き、坂上が、水道メーターを見に行った。止まったまま、二度と針はふれなかった。「妻や子どもとは別れてたみたいで、『死んだら海に放り込め』が口癖やった。気のええ人やったけどな」
訃報を聞くたび、春日野から明かりが一つ、消えるようだった。
◆
坂上は昨年、胃がんの手術で胃の3分の2を摘出した。糖尿病も悪化し、つえをついて小刻みにしか歩けない。
「もう、わしの寿命も終わっとんねん」
坂上の口調が投げやりになった。
体調だけではない。春日野の空き部屋の大半は10月31日で、民間所有者に返還された。リフォームが済み次第、一般入居者を募る。ここは復興公営住宅と賃貸マンションが“同居”する、極めてまれな形になる。
しかし、そんな事情をまだ分かっていない高齢者たちがいた。
=敬称略=
(上田勇紀)
2014/11/9