人気の大型商業施設「あまがさきキューズモール」を中心に、高層マンションやホテルなどが立ち並ぶJR尼崎駅北側。カップルや家族連れでにぎわうのが日常の風景だ。2018年には民間企業の調査「本当に住みやすい街大賞in関西」で1位にも選ばれた。
しかし昭和や平成の初めごろまで、ここは別世界だった。工場の煙突が空に突き出て煙を吐き、労働者が行き交う。周辺には多くの個人商店、少し離れると昔ながらの長屋が密集する下町があった。ひときわ目立っていたのが白地に赤く「キリンビール」の大看板。2万7千平方メートル以上の敷地を持つ「キリンビール尼崎工場」がそこにあった。
同工場は、第1次世界大戦中の好景気で伸びたビール需要に対応するため、1918年に「神崎工場」として建てられた。戦前を中心にビール製造の主力工場として活躍。ピークの昭和50年代には年間約21万リットルのビールを造っていた。
ビールの瓶詰め担当だった永田明さん(48)=宝塚市=は工場内の独身寮に住んでいた。広い敷地内は自転車で移動。醸造や品質管理など担当別に建物がひしめき、迷子になることもあったという。「尼崎駅に着くと、麦汁の独特な匂いがして『帰ってきたな』と感じた」と懐かしむ。
同工場は地域交流にも取り組み、89年から住民らに落語やコンサート、人形劇などを楽しんでもらう「麒麟(きりん)亭」を工場内で開催。子どもたちが公演を見ようと駆け付けるなど親しまれた。95年の阪神・淡路大震災では飲料水を提供し、工場内の浴場も開放するなど被災した地元を支援した。
清涼飲料水の製造を担った中本光英さん(65)=三木市=は同工場近くで育った。公務員になる道もあったが、なじみの深い地元企業に就職。工場の門の近くには古い居酒屋がいくつもあり、仕事終わりの顔見知りや住民であふれていたという。「銘柄は、もちろんほとんどキリンビール」とほほ笑む。
71年、市の周辺再開発計画が決定。工場群は商業施設やホテルなどに変わっていった。尼崎工場も影響を受け、水の確保や採算性の問題などが浮上する。96年、今の神戸工場(神戸市北区)に移転した。
跡地には今はあまがさきキューズモールが立って、「昔の面影はなくなった」と永田さん。住みやすい街関西1位となっても「昔は若い家族やカップルが住むような住宅がなかった。信じられない」と驚く。
まちの発展は喜ばしい。ただ「住民が助け合う下町だったことも地域の一つの歴史。その中心にキリンビールの工場があったんだと思う」。新しい住人にも、この土地に労働者の汗とビールの香りが染み込んでいることを知ってほしいと思っている。(村上貴浩)