九月下旬。神戸市長田区御屋敷通に、懐かしい顔ぶれが集まった。四年九カ月。やっとの思いで再建された「わが家」に、震災前、この地で暮らしていた人たちが帰ってきた。
敷地約千平方メートル、十四階建てのマンション。以前は、木造家屋や長屋、アパートが密集する地域だったが、地震で倒壊。権利者四十三人が土地を集約して、共同再建した。入居九十九戸。うち、六十七戸は分譲用。被災地の共同再建では、最大級の規模を誇る。
「生きる希望がわいてきました。昔のお隣さんらとまた一緒に暮らせます」。自宅の下敷きになり、近所の人に助けられたという主婦内谷好子さん(52)が、喜びいっぱいに話した。
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戦後初めて大都市を襲った阪神大震災は、被災者の住宅を確保するにも土地がないという深刻な問題を浮き彫りにした。家を再建したくても、元の土地が狭くてできない現実は、共通の悩みだった。
同地区のある住人の場合は、区画整理で減歩されると、四十平方メートルの土地しか残らなかった。それが、共同再建で容積率が増し、分譲分の売却益が回収されたことで、約六十平方メートル分の床を取得できた。
ここまでたどり着くには、複雑な権利調整や厳しい財政面を克服する努力が強いられた。「何よりも、みんなが全体の利益で一つになり、前向きに話し合えたことが成功の要因」と、コンサルタントとして事業にかかわった高田昇・立命館大学教授は、住民の結束力を評価した。
神戸市の担当者も「被災地での理想的なモデルケース」と話した。
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区画整理事業が進む長田区の御菅西地区でも、御屋敷通と同様に、共同再建の話が持ち上がった。
震災の翌年秋、まちづくり協議会が中心となって勉強会を始めたが、住民の反応は鈍かった。「どんなに狭くても、やはり一戸建てを建てたい」。多くの住民から漏れた本音だった。
話し合いの場には当初、約四十人がいたが、最終的に共同再建に残ったのは十二人。保留床のない、権利者だけのマンションになった。十二人のわが家は十二月に完成する。一階部分の共用スペースは、地域ボランティアの拠点にすることを決めている。
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複数の地権者が土地を持ち寄り、マンションやビルをつくる「共同再建」。その数は、事業が可能になった一九五九年から三十年間でも、全国で約三百件しかなかった。震災後は、神戸市だけでも九十九件(計四千四百四十五戸)を数える。
被災地のまちづくり支援を続ける建築家の森崎輝行さんは「好んで共同再建をした人は、ほとんどいなかったのではないか」と、何より住む家を確保したいという被災者の切実な事情を説明する。
だが、高田教授は、共同再建という住まいの姿に、二十一世紀の都市と、まちづくりのあり方を重ね合わせる。
「限られた土地で豊かに暮らすには、集合住宅化を進めるしかない。それによってできた空間を積極的に公園などに利用することで、快適さと安全をつくり出せる」
被災地で姿を見せた共同再建は、これからの都市像への道筋をつくっているようにも映る。
1999/10/20