市の計画に住民の声を反映させる「まちづくり協議会」。その仕組みは、震災後、被災地で一気に広がった。中でも神戸市が多く、市が把握するだけで九十七に上る。都市計画事業を進めるための合意形成の組織もあれば、住民が率先して「まちづくり」に乗り出すところもある。
「ケミカルのまち」として知られ、全家屋の八割が倒壊・焼失した新長田駅北地区。震災後、区画整理の網がかぶせられ、鷹取北エリアを含む五十九ヘクタールで復興区画整理事業が進む。「くつのまち長田」の創出や、外国人との共生をうたう「アジアギャラリー」などが、まちのコンセプトだ。
その地区で生まれたのが、十八のまちづくり協議会。うち、東部の六協議会(約二十ヘクタール)が住宅再建時に一定のルールを持つ「いえなみ基準」を取り決めた。
基準は「屋根は道路側に傾斜させる」「塀は作らない」など。下町の雰囲気を壊さず、洗練された家並みを目指す。全国的にも珍しい自主ルールで、昨年十月、神戸市の「景観形成市民協定」の認定を受けた。今、その街並みが少しずつ姿を見せ始めている。
六協議会の一つで、細田神楽まちづくり協議会長の野村勝さん(60)は「まちを失ったショックは言い尽くせない。子や孫のために、いいまちを残していくのは今しかない」と、震災後、まちに生まれた住民の結束を説明した。
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灘五郷「酒蔵のまち」として知られる神戸市灘区の新在家南地区。ここも八割の家屋が倒壊し、伝統のまち並みが失われた。
震災前からあったまちづくり委員会は、伝統のまち再建へと、活動を加速させる。一九九六年六月、神戸市と「まちづくり協定」を締結。風俗店などの更地進出を阻む一方、旧西国浜街道沿いの建築物は酒蔵をイメージした色やデザインにするなど、「酒蔵のまち」を再生する自主ルールを決めた。
これがどこまで守られるのか、協力は要請できても法的な拘束力、強制力はない。だが、傾斜屋根や酒蔵風の自転車置き場などを設けた復興公営住宅、倉庫の外壁を当初の派手なブルーから、住民の要請でグレーに変えた企業など、協力の動きも出てきた。
わが町のあり方を思う住民の熱意が、企業などを動かしたともいえる。
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住民自らがまちのあり方を考える「まちづくり協議会」は、神戸市が全国の先駆けだった。
発端は、七二年の板宿地区都市改造事業での協議会にさかのぼる。市の「まちづくり条例」制定以降は、八二年に長田区真野地区で生まれた協議会が第一号。以来、真野地区をモデルにと、二十八の協議会が震災前までに誕生した。
しかし、住民が一からまちづくりにかかわる性格のものは少なく、震災後できた約七十の協議会も大半は、震災からわずか二カ月で行われた都市計画決定の性急さを和らげる色彩が濃い。震災後、事業が進み、活動目標を見失いかけた協議会も多くある。
神戸大学の室崎益輝教授(都市防災)は「一時的に動きはしぼむかもしれない。しかし、震災が市民に与えた衝撃は風化するようなものではない。必ず次のステップがくる」という。
行政が道路や公園などを建設した後、自分たちの「まち」をどうつくるのか。室崎教授の言葉は、震災が生んだ、そのありようを示唆しているように見える。
1999/10/19