まちをつくる 二つの震災、続く葛藤 災害列島に生きる
阪神・淡路大震災から3日後の1995年1月20日。避難者は神戸市役所にも押し寄せ、大半の職員が救援物資の調達や配給に追われていた。朝刊で4千人と報じられた死者は、さらに増え続けた。
午後3時ごろ、1号館8階の会議室。建設省(現・国土交通省)の区画整理課長(当時)小沢一郎(67)ら4人が、市都市計画局長(当時)の鶴来(つるぎ)紘一(72)らと向き合った。
あいさつもそこそこに、鶴来が切り出す。「人手も時間も足りず、復興をやれない。何とか新法を作ってほしい」
当時、被災地に建築制限をかけられる法律は、建築基準法84条しかなかった。適用期間は「最長2カ月」。鶴来は「市がプランを決めて再建する」と宣言したが、2カ月では到底困難だと思えた。
期限内に、建築制限の網をかけるエリアを決め、住民に周知し、都市計画決定にこぎつけなければならない。住宅や店舗が無秩序に再建されれば、新たなまちづくりの支障にもなりかねない。膨大な作業を控え、「既に3日が過ぎた」と嘆く鶴来に、小沢の答えは容赦なかった。
「被害が大規模だから延長というわけにはいかない。酒田をモデルにすべきだ」
山形県酒田市は1976年10月、市街地22・5ヘクタールを焼失する大火に見舞われながら、2カ月で区画整理の手続きを完了。84条の適用例は過去に3自治体しかなかった。
「酒田では、翌日には建築制限をかけた。神戸も、一日も早く区画整理をやるとの意思を国に表明すべきだ」
鶴来の目の前には、数百枚に及ぶ酒田の事例集が積まれていた。84条以外の選択肢はない、との通告だった。
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神戸市は、いつ84条の適用を想定したのか。神戸新聞社が入手した手書きの内部文書に、その経緯がうかがえる。
地震発生から約5時間後、総務局が都市計画局と住宅局に対し、被災地図の作製を命じている。
被災地を回り、住宅地図に被災状況に応じた色を塗っていった。作業は急を要した。職員向けの要領には「(市民から)救援依頼があっても無視して作業せざるを得ない」とある。街では救急隊員の手が足りず、住民らが近隣の救助活動に駆け回っていた。
20日未明、建設省との協議を控え、関係課長らが完成した被災地図を広げた。地図上に無数の赤や紫、黄の色が広がり、焼失・倒壊による被害のすさまじさを示していた。数人から声が上がった。
「想像を絶する規模だ。とても公表できない」
後に確定する被災エリアは約6千ヘクタール。焼失面積は市の100年分の火災に匹敵する約82ヘクタールに及び、全半壊家屋は約12万3000棟に上った。
84条適用による混乱を憂えた市は翌21日、建設相に新法制定を求める方針を決めた。
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結局、新法成立に期待をかけながら、84条の適用にも備える“両にらみ作戦”を取った神戸市。被災地の面的な復興手法は区画整理が一般的だが、震災前に手掛けた須磨区板宿地区(約15ヘクタール)などは、都市計画決定に至る住民の合意形成に2年近くを要した。
都市計画局に、職員十数人による特命チームがつくられた。同局があった2号館は地震でつぶれ、1号館の空きスペースを探しながら、84条の適用を想定した線引き作業が急ピッチで進められた。
区画整理課主幹(当時)の大釜透(63)が回想する。「1ヘクタール当たり10億円はかかる。どれだけ、一気にやれるのか。戸惑いしかなかった」
時間との闘いだった。=敬称略=
(安藤文暁)
2012/8/18