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(3)再開発構想 懸案解決 千載一遇の機会
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木造家屋や工場などが密集していた神戸市長田区南部=1993年4月
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木造家屋や工場などが密集していた神戸市長田区南部=1993年4月

木造家屋や工場などが密集していた神戸市長田区南部=1993年4月

木造家屋や工場などが密集していた神戸市長田区南部=1993年4月

 前回の協議から5日後の1995年1月25日。神戸市都市計画局長(当時)の鶴来(つるぎ)紘一(72)らは、再び市役所を訪れた建設省(現・国土交通省)の幹部らに資料を示した。

 都市計画局の特命チームが作成した建築基準法84条による建築制限を適用する新長田駅南(長田区)など6地区計233ヘクタールが記載されていた。鶴来は「区画整理と再開発でやりたい」と告げた。

 前日の24日には、兵庫県を視察した建設相野坂浩賢が、建築制限期間を2カ月から6カ月に延長する特別立法の制定に言及したが、いつ成立するのか見通しは不明だった。

 特命チームが絞り込んだ区域の大半は太平洋戦争で被災を免れ、戦災復興事業の網から外れた地域だ。そこには木造家屋や商店、工場がひしめいた。その後、産業構造の転換などで活気を失い、空洞化が懸念される「インナーシティー」が問題視されていた。

 防災力も弱く、阪神・淡路大震災では被害が集中した。神戸市は「権利者との調整が難しい」などとして、ニュータウン開発に比べ、その対策は後手に回っていた。

 神戸新聞社が入手した特命チームの手引書には、次のような言葉が記されている。

 「不幸な災害を千載一遇の機会と捉え(略)都市問題の解決を図る」

 当時の市長、笹山幸俊(故人)も2002年、識者のインタビューで述べている。

 「再開発は(規模が)大きいじゃないかと(職員に)言うた記憶がありますけど(略)今やっておかないと後で(住民に)知らん顔されます」

 終戦後と同じように、無秩序な市街地が再現されることを恐れていたのか。

 くしくも震災直前、市は2010年度までのマスタープラン(長期計画)をつくり、新長田や六甲道を副都心と位置付ける再開発構想を打ち出していた。震災復興は長年の懸案を解決し、震災前からの構想を一気に前進させる“好機”とみなされた。

    ◆

 同じころ、兵庫県もある構想を描いていた。震災で工場が被災した広大な土地を前に、都市住宅部長を務めた柴田高博(63)が、知事だった貝原俊民(78)に語りかけた。「ここは三宮にも近く、市街地に最適ですね」。現在のHAT神戸(東部新都心)である。

 長田などの密集市街地で区画整理をやれば、防災上、公園や道路などの用地が必要となる。県の構想は、工場跡地のうち67ヘクタールを取得し、新法をつくり地権者を誘導する。狙いは密集地の分散と、都市機能のネットワーク化だった。

 「住民の意向もある。神戸市との協議が必要だな」。貝原は思案顔で言った。

 30日午後5時、兵庫県庁で震災後初となる県と神戸市の連絡会が開かれた。市から復興計画の概要を聞いた貝原は「ビジョンづくりの段階から県と市で調整したい。従来の延長線上の計画では足りない」と苦言を呈した。しかし、市助役だった小川卓海(故人)は強い口調で反論する。

 「復興計画はマスタープランの見直しだ。(都市計画の)審議会で、県、関係機関が意見を交わせばよい」

 「そうではない。県と市が腹を割って話そうということだ」。貝原の応酬にも、小川は譲らなかった。

 戦災復興事業を推し進めてきた神戸市の強い自負。「口頭でもいいから説明を」。県が譲歩する形で落ち着いた。

    ◆

 スピード重視の計画策定だが、神戸市に危機感がなかったわけではない。後に300億円を超す負債を抱えることになる新長田の再開発事業である。=敬称略=

(安藤文暁)

2012/8/20
 

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