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まちをつくる 二つの震災、続く葛藤 災害列島に生きる

(4)新長田の復興 急ごしらえ ビジョン欠く
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阪神・淡路大震災で全壊し、取り壊される西市民病院本館。新長田への移転計画が浮上したが、現地で再建された=1995年4月7日、神戸市長田区一番町
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阪神・淡路大震災で全壊し、取り壊される西市民病院本館。新長田への移転計画が浮上したが、現地で再建された=1995年4月7日、神戸市長田区一番町

阪神・淡路大震災で全壊し、取り壊される西市民病院本館。新長田への移転計画が浮上したが、現地で再建された=1995年4月7日、神戸市長田区一番町

阪神・淡路大震災で全壊し、取り壊される西市民病院本館。新長田への移転計画が浮上したが、現地で再建された=1995年4月7日、神戸市長田区一番町

 「何とか病院を持ってこられないか」

 神戸市が震災復興で計画した新長田駅南(神戸市長田区)の再開発事業。再開発課計画係長(当時)の仲井昌之(57)は、街の設計図を凝視していた。

 1995年2月1日。市は建築基準法84条に基づく建築制限を適用する6地区233ヘクタールを公表した。自宅を失った被災者に先行きへの不安が広がり、市が設けた相談窓口の電話は鳴り続けた。

 その一つ、新長田駅南は広さ20・7ヘクタールに及ぶ。焼失地域を中心に絞り込んだとはいえ、関西最大級の面積に見合う“集客力”を持つ施設の誘致が成否の鍵を握っていた。

 仲井が注目した西市民病院は新長田駅の北東約2キロにあり、震災で全壊した。この病院を一部でも新長田駅南に移し、関連産業の参入や人出増につなげたいと考えた。

 しかし、同じ再開発の六甲道駅南(灘区)は区役所の移転に成功したものの、西市民病院は現地で再建する。区役所は震災前から移転の構想があったが、病院とは十分な交渉をする時間がなかった。

 市から事業を委託されたコンサル会社所長の白國高弘(72)は「商業や住宅の規模や構造は決められたが、街をどう活性化させるかというビジョンを盛り込む時間的な余裕がなかった」と悔やむ。その後も、ホテルや大学施設などの誘致策が浮上しては消えた。

    ◆

 一方、長田南部再開発事務所計画係長だった茗荷(みょうが)修(58)は事業資金をどう確保するか、不安を募らせていた。

 行政による第二種再開発事業は、被災者らの土地を買い取り、完成したビルの床を売却するまでの「つなぎ資金」を起債(借金)で賄う。だがビル建設は10年以上続く。その間の利息は、景気動向によっては財政を圧迫しかねない“先物リスク”だった。

 茗荷らは、建設省(現・国土交通省)に低利か無利子で借り入れられるよう要望したが、答えは慎重だった。

 「検討はする」。結局、この要望は認められず、不安は後に現実となる。

 バブル経済の崩壊後、景気は再び好転すると期待した市は、国の指標に基づき、2010年度までの実質経済成長率を年平均2・8%と見込む。だが実際はマイナス0・4%と下降の一途をたどる。

 地価の下落も続き、ビルの床を売却しても土地の買収価格を下回る事態となった。

    ◆

 2月中旬。都市計画局長だった鶴来(つるぎ)紘一(72)に、建設省から突然連絡が入った。

 「新法ができそうだ。使わないか」

 国では、建築制限の期限を「2年以内」とし、被災地への特例的な補助金などを認める「被災市街地復興特別措置法(特措法)」を制定する動きが大詰めを迎えていた。

 特措法の閣議決定は2月17日。概要はその2日前、市にファクスされた。なぜ、もっと早い段階で説明がなされなかったのか。建設省の大臣官房技術審議官だった溜水(たまりみず)義久(70)=後の兵庫県副知事=は「地元を支援する部署と立法チームとの情報共有ができていなかった」と述懐する。

 市は、まちづくり案を21日に公表し、縦覧を28日から始める準備を進めていた。戸惑う鶴来は、後に返答する。

 「被災地への特例措置はありがたいが、今さら延長しても混乱を招くだけだ」

 当初は国に期限延長を求めた神戸市だったが、手続き上は危機を乗り越えていた。

 鶴来は、自らに言い聞かせるように言った。

 「見通しは付いた。一日でも早く、被災者に復興の道筋を示すべきだ」=敬称略=

(安藤文暁)

2012/8/21

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