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(2)深い谷間 環境がらりと変わった
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両側の再開発ビルに店舗が入る大正筋商店街。人が行き交うが、現状は厳しい=神戸市長田区(撮影・吉田敦史) (右)巨大仮設店舗の「パラール」。青と白のテント屋根で親しまれた=1995年9月8日、神戸市長田区
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両側の再開発ビルに店舗が入る大正筋商店街。人が行き交うが、現状は厳しい=神戸市長田区(撮影・吉田敦史)

(右)巨大仮設店舗の「パラール」。青と白のテント屋根で親しまれた=1995年9月8日、神戸市長田区

  • 両側の再開発ビルに店舗が入る大正筋商店街。人が行き交うが、現状は厳しい=神戸市長田区(撮影・吉田敦史)
  • (右)巨大仮設店舗の「パラール」。青と白のテント屋根で親しまれた=1995年9月8日、神戸市長田区

両側の再開発ビルに店舗が入る大正筋商店街。人が行き交うが、現状は厳しい=神戸市長田区(撮影・吉田敦史) (右)巨大仮設店舗の「パラール」。青と白のテント屋根で親しまれた=1995年9月8日、神戸市長田区

両側の再開発ビルに店舗が入る大正筋商店街。人が行き交うが、現状は厳しい=神戸市長田区(撮影・吉田敦史)

(右)巨大仮設店舗の「パラール」。青と白のテント屋根で親しまれた=1995年9月8日、神戸市長田区

  • 両側の再開発ビルに店舗が入る大正筋商店街。人が行き交うが、現状は厳しい=神戸市長田区(撮影・吉田敦史)
  • (右)巨大仮設店舗の「パラール」。青と白のテント屋根で親しまれた=1995年9月8日、神戸市長田区

 西神戸を代表する商工業の町、長田区。阪神・淡路大震災で建物が数多く焼失・倒壊した。全損した店舗は65%に当たる約千に上った。

 それから19年。JR新長田駅南には再開発ビルが立ち並ぶ。復興のシンボルを目指したが、現状の厳しさは相当なものだ。昨年1月には35年間営業してきた大丸新長田店が閉店。「0・5キロ、1キロ圏でみてもパイは小さくなる一方」。会見で店長の中北史郎は苦渋の表情を見せた。

 なぜ、ここまで落ち込んだのか。人口減、高齢化、地場産業のケミカルシューズ業界の衰退、そして再開発の誤算…。商店主らはいくつもの理由とともに異口同音に漏らした。「パラールのころはよかった」

 商店主らが建てた「復興元気村パラール」。国道2号沿いに立つ再開発ビル「アスタくにづか1番館」と同じ場所に、1999年まであった大型仮設店舗だ。青と白のテントがトレードマーク。100店が軒を連ね、大勢の人でにぎわった。

 オープンは震災からわずか5カ月後。「行政を待っていたら何年かかるか分からなかった。自分たちで動いたからこそできた」。当時、まちづくり協議会事務局長だった東充(あずまみつる)(69)は振り返る。地権者と一軒一軒交渉し、約1万平方メートルの土地を借り上げた。活性化に向け勉強会を開き、意見をぶつけ合った。そこには、復興を信じ合う高揚感があった。

 商店主らは次々と策を打ち出す。若手が集まり「アスタきらめき会」を結成。まちづくり会社も設立した。「長田ソース」「ぼっかけカレー」などの特産を開発し、修学旅行生も受け入れた。

 しかし、復興需要がはがれ落ちた97年以降、被災地の景気は急速に冷え込んでいく。金融危機、不良債権処理…。日本経済は長期停滞に入り、被災地は深い谷に落ち込んだ。

 長田区は震災前から、地域の衰退が進んでいた。神戸市は郊外のニュータウン開発に力を入れたが、長田区や兵庫区などインナーシティーの対策は後手に回った。そこに震災が決定的な打撃を与えた。

 ケミカルシューズ業界は震災で約8割の業者が全焼や全半壊。人口は約10万人とピークだった60年代の半分を割った。2004年、再開発ビルができ、大正筋商店街のアーケードが再建されたとき、区全体の小売販売額は震災前の6割に落ち、全国平均、神戸市平均を下回っていた。

 同商店街振興組合の元理事長上田司郎(79)が話す。「商売できる場が整ったときには、環境はがらっと変わっていた」=敬称略=

(土井秀人)

 ▽新長田駅南の商業集積 神戸市の「西部副都心」に位置づけられ、新長田1番街、大正筋、六間道などがそろう。県の「商店街・小売市場団体名簿」で1994年が約900店、2012年は約500店。

(写真説明)(上)両側の再開発ビルに店舗が入る大正筋商店街。人が行き交うが、現状は厳しい=神戸市長田区(撮影・吉田敦史)

2014/1/17
 

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