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(6)セルフ市場 新たな可能性へ生き残り模索
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セルフ市場「フーケット」の吉岡治さん。「神戸の商業は僕らの世代が盛り上げる」=神戸市長田区(撮影・吉田敦史) 焼け野原にアーケードの鉄骨が残った菅原市場=1995年3月、神戸市長田区菅原通
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セルフ市場「フーケット」の吉岡治さん。「神戸の商業は僕らの世代が盛り上げる」=神戸市長田区(撮影・吉田敦史)

焼け野原にアーケードの鉄骨が残った菅原市場=1995年3月、神戸市長田区菅原通

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  • 焼け野原にアーケードの鉄骨が残った菅原市場=1995年3月、神戸市長田区菅原通

セルフ市場「フーケット」の吉岡治さん。「神戸の商業は僕らの世代が盛り上げる」=神戸市長田区(撮影・吉田敦史) 焼け野原にアーケードの鉄骨が残った菅原市場=1995年3月、神戸市長田区菅原通

セルフ市場「フーケット」の吉岡治さん。「神戸の商業は僕らの世代が盛り上げる」=神戸市長田区(撮影・吉田敦史)

焼け野原にアーケードの鉄骨が残った菅原市場=1995年3月、神戸市長田区菅原通

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  • 焼け野原にアーケードの鉄骨が残った菅原市場=1995年3月、神戸市長田区菅原通

 「お年寄りと店主が今夜の食材について相談できるような住みやすい町だった長田。そんな人たちが新しい防災都市で納得して住んでいけるだろうか、心配だ」

 16日、神戸を訪れた映画監督の山田洋次(82)が懸念したのが、震災19年の長田区の状況だった。1995年秋、映画「男はつらいよ」の撮影で同区の菅原市場へ。火災で全37店が焼失した跡を「寅さん」が歩き、被災者を励ました。

 市場は仮設での営業後、2000年、5店舗が集まりセルフ式の「味彩(あじさい)館Sugahara(スガハラ)」として再出発した。青果や精肉、鮮魚を扱う店が共同店舗を建設し、商品を1カ所のレジで買えるようにした。日用品も扱い、開店当初は繁盛した。再建のため3億円の借金を背負ったが、副理事長の小畑泰枝は「すぐに2店舗目も出せると思った」と振り返る。

 それから13年あまり。状況の厳しさは被災地の歩みと重なる。近隣に大手スーパーや格安店が進出、5~6年で客足が鈍った。08年のリーマン・ショック以降は特に低迷。現在、コンサルタントを交えて立て直し策を練る。「建物ができて復興してるように見えるかもしれないけど、借金返済がこたえる。これが続く限り、震災は終わらない」。入り口にある映画の記念碑が寂しく見えた。

       ◇

 被災地で小売市場の店舗数が激減している。神戸市などの調査では08年は93年の半分以下の1183店に減少。空き店舗率は25%で商店街の3倍近くだ。市場は主に生鮮三品を扱い、スーパーと真っ向勝負となる。震災被害に加えて競合が激しい。

 行政は打開策として復興でセルフ化を推し進めた。1カ所に集めることで客の利便性を高め、共同仕入れで品ぞろえを強化。神戸市内では震災後、12のセルフ市場が生まれた。

 しかし初期投資の負担に加え、スーパーとの競争は激化する一方だ。セルフ化だけでは埋没しかねない。

 「生き残るには何が必要か。商売人が勉強しないといけない」。神戸・新長田のセルフ市場「フーケット」理事長の吉岡治(44)は、商業者のネットワークを立ち上げようと動く。全壊・全焼した6店が集まり、02年に開業。周辺は激戦区だが、「地域の特性を熟知しているのがチェーンにない強み」と自負する。

 震災後、まちづくり活動で知られた「やる気ネット神戸」(休止)「アスタきらめき会」(解散)に参加し、情報の大切さを実感した。手始めは2月に開く勉強会だ。「地域商業には可能性が必ずある。つながりの中で見いだしたい」。模索が続く。=敬称略=

(土井秀人)

 ▽セルフ市場 複数の店がそれぞれ扱っていた生鮮や総菜、菓子などを一つの建物に集め、1カ所のレジで購入できるようにした小売市場。足りない商品は共同出資の会社を設立して仕入れる。建物などで投資額は億単位となる。

2014/1/22
 

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