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道路が陥没し、水没した交差点。周囲で渋滞が発生し、警察の現場作業などに影響が出た=1995年1月、神戸市兵庫区大開通
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道路が陥没し、水没した交差点。周囲で渋滞が発生し、警察の現場作業などに影響が出た=1995年1月、神戸市兵庫区大開通

■数え切れぬほどの遺体 

 阪神・淡路大震災の発生から3時間後。倒壊し、生き埋めになった兵庫県警兵庫署からはい出した地域課巡査文野長生(おさむ)(52)=明石署生活安全課警部補=。目に飛び込んできたのは、南側にあった平屋が軒並み崩れた、変わり果てた光景だった。制服を着た警察官はほかに誰もいなかった。

 近隣住民が助けを求めて駆け込んできた。「けがもせず助け出してもらった。今度は自分が一人でも多くの人を助けなあかん」。現場に走った。

 ぺしゃんこになった平屋の中から声が聞こえる。近づくが、がれきの山を前に何の道具もなく、どうすることもできない。「待っといてくれ」と伝え、助けを呼ぼうと署の北側に設けられていたテント張りの緊急現場指揮所に取って返し、報告した。「ほかも同じだ」。埋まった人を助けに戻ることはできなかった。

 「ここに遺体がある。署まで運んでくれ」。指示を受けて遺体搬送の担当になった。住所が書かれたメモと遺体袋を渡され、ワゴン車で現場に向かう。家族がいれば死亡時の状況を聞き取った。すぐに遺体袋は足りなくなり、近くの人からもらった毛布に遺体をくるんで車に乗せて運んだ。

 路上生活者が多かった新開地。アーケードが倒壊し、大勢の人が下敷きになっていた。署の道場はいっぱいになり、近くの寺院に運ぶように指示された。粉じんを浴びたのか、遺体は白く汚れていたが、その顔は傷や出血のないきれいなままだった。

 数え切れないほどの遺体を見た。運べたのは5、6人だった。「しんどいとかつらかったというのはない」。記憶は次第におぼろげとなる。とても長い1日だった。「良いか悪いか分からないが、亡くなった人をかわいそうと感じていたら、作業が進まなかった。極限状態だった」

 家族のことは気になっていたが、公衆電話は見掛けるたび、行列ができていた。家に連絡できたのは震災から10日目のことだった。妻が電話に出た。「無事か」「みんな無事」。短いやりとりだった。子どもの声を聞いた。ほっとして心が温かくなっていくのを感じた。

 震災から2年後、依頼されて小学校で震災経験を話した。「震災はまた起こるかもしれないから、普段からの助け合いが大切です」と伝えた。

 翌年も同じ学校で講演することになった。予行演習中に頭が真っ白になった。言葉が出てこない。「震災の時、自分は冷静にできていたと思っていた。それは無理やり心にカバーをつけてただけだったんだ」。生き埋めになったこと、道場を埋め尽くした遺体。心にずしんと当時の状況がよみがえってきた。

 震災から26年がたった。「震災のことは思い出したくないし、極力記憶から消したい」と思うのが本音だ。

 兵庫署で生き埋めになった10人の中で現役の警察官は自分1人になった。手元に残していた震災当時の新聞や写真を明石署に提供した。自分なりに教訓を伝えるためだ。

 資料を見つめる若手署員を見て願う。「まずは自分の身を守る。そうしないと市民を助けることもできない。道具があっても使う人がいない。自分の命を守ることが第一」=敬称略=(長沢伸一)

    ◇

 未曾有(みぞう)の大災害は、人命救助の拠点となるはずの警察署も襲った。1階が倒壊した神戸市兵庫区の兵庫警察署。署員10人が生き埋めになり1人が死亡。道場は遺体置き場となった。一つの判断が人命を左右する生死の現場。26年前の阪神・淡路大震災に警察官はどう向き合ったのか。現在、明石署に勤める3人の証言に耳を傾けた。

【特集ページ】阪神・淡路大震災

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