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明石郡小学校長会が建立した国内で最初の子午線標識=明石市天文町2
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明石郡小学校長会が建立した国内で最初の子午線標識=明石市天文町2
「標準時」「子午線」の記述がある高等小学校の国定教科書(国立教育政策研究所教育図書館「近代教科書デジタルアーカイブ」より)
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「標準時」「子午線」の記述がある高等小学校の国定教科書(国立教育政策研究所教育図書館「近代教科書デジタルアーカイブ」より)
吉野健一さん
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吉野健一さん
菊池大麓(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)
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菊池大麓(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 「子午線のまち」と兵庫・明石が称されるいわれをひもとくと、一つのモニュメントに行き着く。「大日本中央標準時子午線通過地識標」。明石郡小学校長会の先生が1910(明治43)年、兵庫県明石市天文町に建立した国内初の子午線標識だ。東経135度子午線上の時刻を日本の標準時とする勅令の公布が1886年。なぜ20年以上の「空白」が生じたのか-。「子午線研究家」の吉野健一さん(58)=神戸市垂水区=が、算術の教科書との関わりからその理由を解き明かした。(川崎恵莉子)

 吉野さんは明石市立天文科学館の親睦会「星の友の会」会員。神戸大バイオシグナル総合研究センターの准教授で、趣味で子午線に関する研究に取り組む。これまでも明石の「子午線のまち」との認識が定着した背景などを調べてきた。

 今回、興味を抱いたのは、日本標準時子午線の制定から日本初の子午線標識建立までに要した20年余りの歳月だった。子午線は、北は当時の竹野郡(現在の京都府)から南は海草郡(和歌山県)まで12郡を通過。1910年のタイミングで、なぜ行政ではなく、明石郡の教員が建てたのか。

 そこで吉野さんが着目したのが当時、大転換期にあった教科書。03年、国が内容を統一した教科書を用いる「国定教科書制度」を導入。国の検定を経た民間出版社の教科書から選ぶそれ以前の制度を変えた。

 吉野さんは国定教科書を調べ、05年発行の高等小学校第4学年(現在の中学2年)の算術(算数)の教科書に、「標準時」「子午線」の記述を発見。教員向けの国定算術教授法要義には「中央標準時は、東經百三十五度の地(播磨國明石附近)の地方時であつて…」など「明石」の表記もあった。

 吉野さんの推測はこうだ。教員は生徒に指導するため、子午線について新たに学習する必要が生じた。その過程で子午線が明石を通過することに気付き、10年の子午線標識の建立につながった-と考えた。

 念のため、国立教育政策研究所教育図書館が公開している算術教科書のうち、国定化以前のものを調べたが、子午線に関する記述は見つからなかったという。

    ◆

 吉野さんは、子午線を教科書で教えるようになった背景についても調査。浮かび上がったのは、日本標準時子午線の制定に尽力した数学者、菊池大麓(だいろく)の存在だった。

 東京大の前身、東京帝国大の理科大学長(理学部長)だった菊池は1884年、米国ワシントンで開かれた国際子午線会議に出席。会議では英国のグリニッジ天文台を通る子午線を時刻の基準となる本初子午線とすること、各国は経度を15度隔てるごとに1時間ずつ時差をもつ時刻を使用することが決まった。

 さらに国定教科書のスタート時、菊池は文部大臣の職にあった。標準時の普及を願う菊池らの思いを反映し、教科書に子午線の記述が加えられた-。吉野さんの推論だ。

    ◆

 日本で最初の子午線標識の建立、そして菊池のこだわり。吉野さんは、今月4日にオンラインで開かれた日本数学教育史学会の発表会で、この研究成果を報告した。

 吉野さんは語る。「明石が子午線のまちと呼ばれているのは、先人の人々の熱意と努力があったからこそなのです」

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