8月15日の終戦の日まであとわずか。80年前の神戸新聞から1日1本、記事を原文表記のまま紹介します。

8月はこちら

7月はこちら

6月はこちら

■昭和20年5月31日 終戦まで76日

不屈〝神戸の面魂〟繁華街篇 元町

「雨に濡れた鈴蘭燈」こんな文句で元町は唄はれた、元町は神戸の表徴であり、鈴蘭燈は元町の表徴でもあつた、外國船が着くたびに遊覧客が買物に漫歩するのも、娘が洋裝で水兵の腕にぶらさがつてゐたのも過去の元町の姿であつた 然し大東亞戰争以來すつかり変貌した、元ブラする男の服裝が流行の背廣から國民服に変りハイヒールは地味なモンペに変つた、香り高いコーヒーとレコードを誇つてゐた喫茶店は無糖紅茶や甘くないあんみつを販賣するやうになつた、然し本當の元町の変貌は三月十七日の夜からである、元町の西部は焦土と化した、然し元町人はこんなこと位で屈しない

神=神/國=国/裝=装/亞=亜/戰=戦/來=来/廣=広/賣=売/當=当

【メモ】空襲に遭った元町の変容がつづられている。「こうべ元町100年」によると、商店街の象徴だったスズラン形の街灯は戦時下の金属供出で姿を消した。

■昭和20年5月30日 終戦まで77日

燒跡の戰力化にみる創意と工夫 瓦礫の處分

埋める場合 ある目貫街の隣組では瓦礫まじりの土に篩をかけてガラスその他の危險物を取除き、黑土を盛上げ巧に農園化してゐる、この方法は最も簡便でやり易い

垣根代りに利用 煉瓦や瓦は何坪かに區切られた農園の周圍に整然と積上げられてゐる、しかし、近くに爆彈が落下した場合、附近の壕に待避してゐるものを傷つける懸念もあり、いま一工夫ほしい

單に取付けた場合 何の工夫もなく、ただうづ高く積上げられたのは不体裁でもあり爆風に対する危險もあるわけで努力が足りぬ

敷石代りに利用 主として待避壕を造る際地下から湧出する水を防ぐためと敷石として利用され、相當の効果を擧げてゐる

燒=焼/戰=戦/處=処/險=険/黑=黒/區=区/圍=囲/彈=弾/單=単/當=当/擧=挙

【メモ】空襲の焼け跡におけるがれきの活用事例を紹介している。繁華な「目抜き」の地域も農地になっていることが分かる。

■昭和20年5月29日 終戦まで78日

吏員の月給も通帳拂ひ 六月賞與から神戸市で實施

神戸市では上半期の賞與支給を機會に全吏員の貯蓄を徹底させるため、普通貯金通帳を漏れなく交付の上、引出しは自由の前提で賞與月給を全部振替制度によつて支給することになつたが

なほ下半期分も同制度を執ることによつて、大体賞與金だけで百万円の貯蓄実績をあげる豫定である、この前記振替制度支給は近く俸給の三ケ月分前拂ひが実施された場合も採用される

拂=払/與=与/神=神/實=実/會=会/豫=予

【メモ】神戸市職員の月給やボーナスが振り込みに。1937(昭和12)年7月の日中戦争開始以降、軍需産業への融資などを円滑に実施するため、国民貯蓄奨励局が設置されるなど国策として貯金が奨励された。「昭和十七年度兵庫縣國民貯蓄奬勵運動概況」では、日中戦争開始から5年間の戦費290億円のうち87%を国民の貯蓄で賄ったとし、「國民貯蓄の增強こそは戰争に勝拔く源動力」と強調している。

■昭和20年5月28日 終戦まで79日

戰災勇士に捧ぐ 神戸華僑挺身隊葬

昨年十一月から神武中心工業衆芳工場に出勤し決戰兵器の生産に挺身、百パーセントの出勤率をみせてゐた神戸華僑增産挺身隊員百五十名のうち数名が去る十一日の戰災のため職場に倒れたので、同隊では隊長A氏以下隊員が参列二十七日午後二時から神戸中華會館で嚴かな隊葬を執行、縣警察部長も敢闘生産戰士に対して心からなる弔辞をおくつた

(Aは記事では実名)

戰=戦/神=神/增=増/會=会/嚴=厳/縣=県

【メモ】戦局悪化などに伴い日本で暮らす華僑が「増産挺身隊」として工場で作業していた。書籍「神戸と華僑-この150年の歩み」には、現在の東灘区にあった川西航空機甲南製作所で「少なからぬ華僑の若者達が、僅かな報酬と食料の特別配給を得るために働いていた」とあり、記事にある5月11日の空襲で、神戸中華同文学校の校長の長女と主任の息子2人が亡くなったことが記されている。

■昭和20年5月27日 終戦まで80日

競馬馬も輸送に一役 今後は防空車を配給

生産部門の輸送力を增強するためまた疎開、引越等に貨物自動車の使用が全面的に禁止されたので、兵庫縣輸送課では燃料の要らぬ軽車輌の增産と重点配給を計画し、すでにAに対し四輪車(馬力)五千台、肩曳車五千台一輪車(猫車)五百台計一万五百台を発注し、出來上り次第順次工場事業場へ配給、また防空車輌と名づけた肩曳荷車二千五百台は縣軽車輌工業組合で製作を急いでをり、縣下の防空指定市町村に対し、すでに配給を開始、今月中には二千二三百台、六月中には全部製作配給を了ることになつてゐる

なほ四輪車(馬力)の動力として競馬馬も輸送戰士として動員される

(Aは記事では実名)

增=増/縣=県/來=来/戰=戦

【メモ】燃料を必要としない馬車や人力で動かす「軽車両」の増産の話題。疎開時の運搬などに使われるためか、荷車を「防空車両」と命名している。

■昭和20年5月26日 終戦まで81日

聲高々と「大楠公の誓」 湊川神社で總進軍式典

沖縄の戰局正に危急を加へ今こそ一億國民総てが七生報國の大楠公精神に徹し、皇國護持のため敢闘すべき秋であるが、二十五日の大楠公祭典日を期して全國的に「一億楠公総進軍」運動が展開され、この日神戸湊川神社では正面に大祭壇を設け御神靈を安置し神具、宝物を両側に立て列べて午前十時より祭典を嚴修したが、一時からは神戸市、大政翼賛會市支部、大楠公奉讃會の主催で「一億楠公総進軍」の式典を擧行した

聲=声/神=神/社=社/總=総/戰=戦/國=国/靈=霊/嚴=厳/會=会/擧=挙

【メモ】南北朝時代、天皇に忠義を尽くし、湊川の戦いで命を落とした楠木正成。戦前は教科書に登場し、命日の5月25日に「総進軍」の式典が催されるなど戦意高揚に利用された。書籍「国家はいかに『楠木正成』を作ったのか」では、戦前の正成の存在を「日本人としてのあるべき正しい姿を垂範し続けた『日本精神』の権化」と表現している。

■昭和20年5月25日 終戦まで82日

素敵!蘆粟からお砂糖 縣下各校の研究に奬勵金一萬圓

兵庫縣では縣下の中等、青年、國民學校における戰力增強に関する研究を奬勵するため、二十五件を選抜、総額一万円の研究奬勵金を交付することになつた最も多額の奬勵金を貰ふことになつた縣立農蚕學校A氏の「蘆粟による砂糖製造に関する研究」は昭和十六年から研究に着手し、十八年度には六・七%、即ち莖十貫から六百七十匁の粗糖の製出に成功したもので砂糖不足の折柄その成果を期待されてゐる (Aは記事では実名)

縣=県/奬=奨/勵=励/萬=万/圓=円/國=国/學=学/戰=戦/增=増/莖=茎

【メモ】モロコシの一種「蘆粟(ろぞく)」から砂糖を造る研究に奨励金が交付された。戦時下の砂糖不足の理由について「近代日本糖業史 下巻」は、戦局悪化などによって航空燃料の合成原料製造に砂糖が振り向けられた▽日本の糖業の基盤だった台湾からの内地輸送が厳しくなった-などとしている。

■昭和20年5月24日 終戦まで83日

アルミ貨は明日の飛行機だ 引換運動に街頭進出の乙女達

薫風に前髪を靡かせ、制服も凛々しい神戸市立第一商業學校の學徒たちが二十日から市内十ケ所の街頭に進出、つばさの增産になくてはならぬアルミ回收の一環を担ひ同貨を擧げて敵擊滅の戰場に送りこまんものとアルミ貨移動引換班の腕章に身を固め甲斐々々しくも雑踏する中にあつて道行く人々に「十銭、五銭、一銭のアルミ貨は残らず引換さして下さい、アルミは明日の出陣を待つてをります」と呼びかけてゐる、傍にヨイコを連れたお母さん、會社員風のお父さんたちから“五銭を十枚”と引換へを求められるなど見る見るうちにアルミの山が築かれる

神=神/學=学/增=増/收=収/擧=挙/擊=撃/戰=戦/會=会/社=社

【メモ】航空機の部品となるアルミニウムの不足が深刻化。1945(昭和20)年初頭には「アルミ貨全面回收要綱」に基づく引き換え強化期間が設定されたが、充足に至らず、その後も回収の呼びかけが続いた。

■昭和20年5月23日 終戦まで84日

神戸臨時市會 追加豫算可決 市役所廳舎の防空態勢強化

神戸緊急臨時市會は二十二日午前十時より開かれた議院総會に引續き午後開會、市役所廳舎防空態勢強化に関する追加豫算二十万円を原案通り可決閉會後議場で全議員記念撮影をなして散會した

姿消す市會議場

防空態勢強化のため市役所廳舎の一部除却と共に姿を消す市會議場は明治四十二年十二月現廳舎の新築落成と共に生れ、昭和二十年の今日まで三十六年間五百三十二回の本會議が開かれたのであつたが、この二十二日の臨時市會を最後に名残惜しくも取り毀されることになつたものである

神=神/會=会/豫=予/廳=庁/續=続

【メモ】神戸市会の話題。当時の議場は、現在の神戸法務総合庁舎(中央区)の周辺にあった市役所本庁舎に入っていた。「神戸市史 第三集 行政篇」によると、取り壊しは空襲の延焼を防ぐためで、当時の議長は「議場に赤襷(あかだすき)をかけて差出したという気持」と述べたという。

■昭和20年5月22日 終戦まで85日

殘留學童教育 神戸で審議會

神戸市では市内残留の國民學校一二年生に対する教育を実施してゐるが「躾教育」を重点とする残留児童に、知性と並行する完璧な教育を授けるために學校長のうち適任者を委員とする戰時教育非常措置審議會を結成、毎週水曜日に委員會を開いたうへ次週の教育内容の大綱を含め、この原案にもとづき担當教員の諸講習を翌日の木曜日午後二時から四時まで行つて徹底を期してゐるが、審議會で決定される内容は単なる教材の選定や編成ではなく、眞の躾教育の目的を果すために算術、國語などの教材を一丸とした内容を盛るものであり、毎週決定、実施されて行く

殘=残/學=学/神=神/會=会/國=国/兒=児/戰=戦/當=当/單=単/眞=真

【メモ】「學童疎開強化要綱」で「全員疎開」の対象外となった現在の小学1、2年生に対する「躾(しつけ)」を重視した教育の話題。教材選定から授業内容まで、極めて統制的だったことがうかがえる。

■昭和20年5月21日 終戦まで86日

山頂に振り下す鍬 ゴルフ場も忽ち增産基地

六甲山頂に流れる健やかな薫風、青インクをば流したやうな斜面からだだ廣いゴルフリンクの荒蕪地に力強い增産の鍬が打ち降ろされて行く、特攻機の油であり戰ふ國民の食糧である甘藷の大增産を目指して十四日から第二期隊として聖汗を流す「青年學校教員決戰隊」の逞しい食糧決戰先駆の姿だ

六甲山頂の大食糧基地化はこの教員決戰隊の開墾作業によつてすゝめられてゐるが、約五十名は甘藷、馬鈴薯の增産方法の指導をうけ山頂の青少年道場に宿泊しつつ決戰下の指導者としての素質錬成に精進してゐる

增=増/廣=広/戰=戦/國=国/學=学

【メモ】食糧確保のため教員らが六甲山を開墾している。神戸市森林課によると、当時の六甲山は1938(昭和13)年7月の阪神大水害の影響が残る一方、戦時下でも苗木の植林を継続。43年度=13万7500本▽44年度=6万1500本▽45年度=4万5千本-との記録がある。

■昭和20年5月20日 終戦まで87日

まるで雲助 目に餘る闇運賃

闇運賃の横行目に余るものがあるので縣刑事課では輸送課と強力取締をつゞけてゐるが、最近検擧送局した事犯の主なものを擧げると

神戸兵庫區上三條町、A運送會社、運轉手B(37)葺合區熊内町四丁目、同助手C(44)は灘區備後町四丁目、會社員D(56)を通じて兵庫區矢部町、E會社社長F氏の疎開荷物を運搬、縣下多紀郡味間村まで六十五キロの公定運賃百四十五円のところを四千円を受取り、分配してゐた

(A~Fは記事では実名)

餘=余/縣=県/擧=挙/神=神/區=区/條=条/會=会/社=社/轉=転

【メモ】公定料金の30倍近い額を取っていた運送業者の摘発例。軍需品の輸送を最優先する戦時統制の影響とみられる。見出しの「雲助(くもすけ)」は、荷運びやかごかきに従事した江戸期の人足を指す言葉で、広辞苑の「雲助根性」の項目には「人の弱みにつけ入ってゆすりを働く下劣な根性」とある。

■昭和20年5月19日 終戦まで88日

更に開墾四十町歩 有馬郡下の國民校

食糧增産一本に挺身してゐる有馬郡下二十四國民學校の敢闘狀況に感激して有馬地方事務所視學は郡長村長會に対し一層協力を懇請した

 昨年度校庭、原野、公池など自らの努力で開墾、大豆、藷類など收穫した総反別は卅八町歩に上つた勿論既設學校園はこれらの別に経營してゐるが作物を集團疎開の學友や、都市へ供出した量も多く本年は更にこの上へ四十町歩開墾を計画してゐる、校園の甘藷育苗も良好で十一万本(施種三百十貫)の苗採集が豫想されてゐる

國=国/增=増/學=学/狀=状/視=視/會=会/收=収/營=営/團=団/豫=予

【メモ】有馬郡の子どもらが校庭などを開墾し、大豆やイモの増産を目指している。1945(昭和20)年1月に閣議決定された「薯類增産對策要綱」では、労力や輸送などの確保に協力する関係省庁に文部省(現文部科学省)が含まれている。

■昭和20年5月18日 終戦まで89日

阪神間地帶の學童集團疎開

神戸、尼崎両市に接續する阪神間重要工場地帶の學童を護るため兵庫縣ではさきに疎開を実施した本庄、鳴尾両村についで西宮、芦屋両市および武庫郡のうち海岸に面する特殊重要地帶における國民學校兒童の集團疎開を行ふことになり十六日から基礎調査を開始した

 こんど疎開するのは特殊重要地帶にある國民學校の三學年以上四千名で六月早々縣下および岡山、鳥取縣の既疎開地へ出発するが、集團疎開を実施する地域外の阪神間市町村では強力に縁故疎開を勧奬して學童疎開の完璧を期することになつてゐる

神=神/帶=帯/學=学/團=団/續=続/縣=県/海=海/國=国/兒=児/奬=奨

 【メモ】空襲から児童を守る学童疎開を兵庫県が拡大。1945(昭和20)年3月に閣議決定された「學童疎開強化要綱」では、親戚らを頼る「縁故」を原則とし、難しい場合は学校単位の「集団」を取るよう定める。この日の紙面には、妊婦らの疎開の記事もある。

■昭和20年5月17日 終戦まで90日

《新司偵》神有電車への要望

◇…神有電車の乘降が殺人的混雑を示してゐるのは戰災前からのことであるが、それ以後は一層甚だしくなつた、當事者はこれが緩和について相當苦心されてゐる様であるから、協力する意味で乘客の声をお傳へする

◇…運轉車輌を增加すること(故障車であらうと思ふが鈴蘭台駅にはいつも十数台の電車が停つてゐる)発車間隔をいま少し短縮すること(四十五分に一台では困る)車内の網棚を修繕すること(不可能ではない。網棚不備の爲持込荷物が嵩張り余計混雑する(車内の座席を取除くこと(実行容易と思はれる)

神=神/乘=乗/戰=戦/當=当/傳=伝/轉=転/增=増/爲=為

【メモ】神戸電鉄の前身、神戸有馬電気鉄道の混雑についての読者投稿。コーナー名の「新司偵」は陸軍偵察機の愛称が由来とみられ、2面に随時掲載されていた。なお、当時の神戸新聞は、用紙不足などによって表裏1枚の朝刊のみで、2面が最終面だった。

■昭和20年5月16日 終戦まで91日

初わかめ神戸へ 香住では好調です

戰時食糧面に生鮮魚介藻類がドシドシ採取される時期に入つた但馬沿岸香住港では、鮮魚增産に大型、小型の全漁船が油のつづく限り出漁をつづけやうと申合せ連日活躍中であるが、また動力船外の漁船も海底にグン●●成育して行く海藻「若布」の採取に全力をあげ、その初採取を行つたところ例年より多少遅れてはゐるが量は相當多いことを確認した初採取した新わかめ約二貨車は生のまま神戸中央市場に向け直 送されたが最盛は六月中旬ころ さらに「サザエ」「アワビ」などの貝類も登場、地曳鰯も加はつて水産部面も漸次賑やかな生産期に入ることになつた

※●●は「く」を縦に伸ばしたような繰り返しの記号

神=神/戰=戦/增=増/海=海/當=当

【メモ】香住で採れたワカメ(若布)が神戸へ。日本わかめ協会(東京)によると、戦前は基本的に地産地消の食材であり、戦後に養殖が始まるまでは、今ほど一般家庭に浸透していなかったという。

■昭和20年5月15日 終戦まで92日

最終學校長に志願標を 幹候、少年兵の願書受付下旬から

本年度の陸軍特別幹部候補生並に少年兵の召募はいよいよ五月下旬より六月中旬に行はれる願書受付にはじまるが今年度の召募要旨は例年と違ひ個人による志願手綴は廃止されすべて現在修學中又は最終修學の學校長に志願票を提出することになつてゐる

採用検査は九月十月にわたつて行はれる豫定であるが本年は身体検査と口頭試問のみで、學科試験は行はれない

神戸聯隊區司令部では熱意旺盛なる志願者の多数應募を望んでゐる

學=学/豫=予/神=神/區=区/應=応

【メモ】陸軍が10代の志願兵を募集。学科試験が廃止されており、戦局悪化などに伴う深刻な兵員不足がうかがえる。書籍「赤紙-男たちはこうして戦場へ送られた」によると、日中戦争開始時に60万人だった日本の兵員数は、太平洋戦争開始時に240万人、終戦時には700万人を超えたという。

■昭和20年5月14日 終戦まで93日

一機でも先づ待避 戰訓は教へる

醜翼B29は、執拗に爆擊の鉾を変へて十一日は白晝阪神地方を盲爆したが、十二日は一機で神戸市内某所にまた盲爆した、だが今度は待避さへ確実ならば死傷者は案外すくないといふ貴重な戰訓を與へた

今回の爆擊で教へられることは死傷者が殆ど歩行者に限られ、硝子の破片で怪我してゐた点などからみて敏速に待避し、歩行者も一機だからと言つて待避を忘れるやうなことがない限り被害は全くいふに足りない点である

戰=戦/擊=撃/晝=昼/神=神/與=与

【メモ】「新修神戸市史 産業経済編Ⅳ 総論」は、1945(昭和20)年2月4日、3月17日、5月11日、6月5日、8月6日の5回の空襲を「通常『神戸大空襲』と呼ばれている」とする。一方で、この5回以外にも米軍機B29による空襲は日常的に続き、記事中の5月12日の爆撃でも、記録によれば少なくとも13人が死亡している。

■昭和20年5月13日 終戦まで94日

敢然、旅客の待避指揮 立派に職場に散る若き驛員

列車乗客が待避の完了するのを見届けて後待避壕に身を避けようとして殉職した阪神間某駅の若い駅員-信号手A君(19)-大阪市北區大融寺町四Bさん長男-は空襲警報とともに駅に停車した列車の乗客多数をC駅長以下同僚と協力附近の待避壕に逸早く待避させ更に車内を見廻して一人も居残つてゐないのを確かめた上續いて自分も最寄の壕に飛び込んだが既に遅し、被彈して地を紅に染めて若い命を散らしたのである

(A~Cは記事では実名)

驛=駅/區=区/續=続/彈=弾

【メモ】5月11日の空襲で亡くなった駅員の最期に「敢然」「立派に職場に散る」という見出しが付く。「タイヒ」も「退避」ではなく「待避」。情報局が1945(昭和20)年1月に刊行した広報雑誌「週報」では「待避所は待機所」と定義付けられており、「初期防火のために一時待機する所」として安全確保の場所ではないと強調している。

■昭和20年5月12日 終戦まで95日

砂塵に傷める眼 爆風に巻込まれた待避せぬ人

敵機が眼前に翼を張つてゐる刹那にあつても心外のやうに要保護者である子供または婦女子が路上に待避を怠つてゐる姿も散見された、記者が待避せよと大声した瞬間、豫感は的中、周囲は砂塵と爆風の戰場絵巻となつて身辺に繰展げられたのであるその時刻と前後して記者は高所から身動きも出來ない羽目に投込まれた、断腸を思はせるかのごとき重苦しい爆彈の爆破音に耳目の機能をすら一時停此せられ噴上げられた砂塵がやたらに眼に入るのだつた、よく眼をまもれと口にはいはれてゐることもこのとき痛切に感ぜられた

豫=予/戰=戦/來=来/彈=弾/此=止

【メモ】神戸では1945(昭和20)年3月17日以来となる本格的な空襲が5月11日午前にあり、記者がルポを書いている。「神戸大空襲」などによれば、30分足らずの爆撃で1200人超が死亡したとされる。米軍の主目標は、現在の東灘区にあった川西航空機甲南製作所だった。

■昭和20年5月11日 終戦まで96日

在留外人を取締れ 商経會懇談での問題

神戸市がうけた戰災に依る諸問題に対し、さきごろ縣商経會では種々協議懇談したが席上さらに新しい問題として在留外人の取締りに関して意見の発表が行はれた

すなはち本土戰場の重大時期にあたり、在留外人の取締りが寛大で、耐乏生活をなしつつある一般民心に悪影響を及ぼしつつあり、防諜上にも放任し難いものがあるから彼等をして適地集團疎開させる等取締りの強化適切化が要望されたものである

會=会/神=神/戰=戦/縣=県/團=団

【メモ】経済団体関係者が、在留外国人の「集団疎開」を要望している。書籍「敵国人抑留-戦時下の外国民間人」によると、太平洋戦争末期、日本政府は敵国の在留外国人を長野・軽井沢と神奈川・箱根に強制疎開させようとした。同盟国で降伏したドイツを含め最終的に45カ国が対象となり「いたずらに混乱を招き、方針どおりに実行することは難しかった」としている。

■昭和20年5月10日 終戦まで97日

お禮の大根 淡路から神戸へ

神戸中央市場へ連日大量に入荷してゐる淡路時無大根は神戸市からはるばる運んだ屎尿により生育した大根であるが生産地の津名郡釜口村、生穂町、佐野町浦村の四ケ町村ではそのお禮として自町村の浪費さへ協力統制して全生産量の五十三万貫を全部神戸市に廻すことになり、目下神戸地區戰時食糧輸送協力會の手で十二隻の汽帆船を総動員の上輸送期間二十日間の豫定でぞくぞく出荷されてゐる

禮=礼/神=神/區=区/戰=戦/會=会/豫=予

【メモ】淡路島の津名郡で収穫された「時なし大根」が、神戸へ出荷された。その量、1987・5トン。肥料となるし尿を送ってくれた「お礼」としている。生産地として登場する4町村は「昭和の大合併」で釜口村と浦村が淡路町に、生穂町と佐野町が津名町になり、「平成の大合併」で淡路市となった。兵庫県農産園芸課によると、2023年産大根の県内の収穫量は1万トンという。

■昭和20年5月9日 終戦まで98日

有馬郡でヒマ 增産を協議

有馬地方事務所並に同教育報國會主催二十年度學徒食糧增産対策について中等、國民両校長會議を七日有野国民校で開催

春季綜合作付計画中“ひま”の絶対增産を目指し國民校三學年以上一名四本を栽培一本一合供出することとなつた、有馬郡下一万人の學徒が栽培すると仮定すれが四十石は決戰場へ供出することになる

增=増/國=国/會=会/學=学/戰=戦

【メモ】現在の三田市などを含む有馬郡の校長会議で、児童らの栽培目標が定められた「ひま」。「トウゴマ」とも呼ばれる植物で、ひまし油が採れた。1945(昭和20)年7月、陸軍燃料本部が参謀らへの説明のために作成した資料では、航空機などで使われる潤滑油の原料が取得困難として、代替となるひまの増産を「強力ナル支援推進ヲ必要トス」としている。具体的な目標は、全国で3万トンとされた。

■昭和20年5月8日 終戦まで99日

戰災援護會の資金 神戸市民から募集

再び來る敵暴爆に備へて神戸市は戰災市民の救護に必要な援護物資の買上げを行つてゐるが、これと同時に今回設置された戰災援護會兵庫縣支部の資金として廣く市民から援護資金を募集することになつた

募集の方法は隣保を通じて町内會でまとめたうへ區役所に提出されるが、募集総額は七十万円を目標として一世帶の割當は定められてゐないが、大体十円程度の據出によつて出來るだけ巨額の資金となるやう市では望んでゐる

戰=戦/會=会/神=神/來=来/縣=県/廣=広/區=区/帶=帯/當=当/據=拠

【メモ】神戸市が「援護資金」名目で現金を募集。「物価の文化史事典」によると、1945(昭和20)年のはがきは5銭、山手線初乗りは10銭。記事中の世帯当たりの目安額10円は、現在の価値で1万数千円程度とみられる。

■昭和20年5月7日 終戦まで100日

歡樂境 新開地は芽ぐむ

歓樂境湊川新開地も暴虐鬼の無差別爆撃で、今は往時を偲ぶよすがもないが、敵と雖も流石に永年に亘つて名を賣つてきた新開地という老舗までは奪ふことは出來なかつた、そしていまや面貌の一変した新開地は昔日の賑繁さは取戻し得ないとするも永年市民に親しまれてきた歓樂境新開地の面目を取戻さんものといまや復興の意氣高く起上りつゝあり、この頼もしい新開地の復興振りをさも讃へるかのやうにタワーがはるか後方に天を摩してゐる

歡=歓/樂=楽/賣=売/來=来/氣=気

【メモ】1945(昭和20)年3月17日の空襲に遭った新開地。「復興」の現状をまとめた記事で、湊川公園にあった「神戸タワー」に触れている。「神戸新開地物語」によると、戦前の新開地は西日本屈指の繁華街で、劇場「聚落館」前の人流は毎時2万人、当時の明石市の人口が行き来する規模だったという。

7月1日~31日はこちら

6月1日~30日はこちら