8月15日の終戦の日まであとわずか。80年前の神戸新聞から1日1本、記事を原文表記のまま紹介します。
■昭和20年6月30日 終戦まで46日
食生活にも必勝 縣食糧營團で懸賞論文募集
縣食糧營團では次の通り二題の懸賞論文募集をしてゐる
一、戰災神戸市の敵前復興と食糧營團 乏しい資材勞力を服して戰ふ市街の再建復興案とこれに伴ふ強靱な食糧配給の組織、機構、方法等(行数二十字詰二十行原稿用紙百枚以内)
二、戰災を克服する生活の在り方=一瞬にして打ちのめされた戰災者の逞ましい復興生活について(行数二十字詰、二十行原稿用紙二十枚留)
縣=県/營=営/團=団/戰=戦/神=神/勞=労
【メモ】「食糧営団」が、懸賞論文を募集。米、麦、イモ類など「主要食糧」の配給を担当した法人で、1942(昭和17)年9月以降、東京に中央組織が、各都道府県に地方組織が設けられた。情報局がこの年の8月に刊行した「週報」では、それまで配給を担っていた民間事業者や組合では営利性を取り除けないため、「非常に強い公益性をもつた私法人」の営団を設立したと説明している。
■昭和20年6月29日 終戦まで47日
白壁も塗り潰して 全縣下部落、町内會の完全武裝 戰鬪態勢確立週間
本土決戰の緊迫に伴ひ三百二十万縣民がつちり團結して最後の勝利に総力を結集するため、兵庫縣では七月七日から十三日まで部落會、町内會戰闘態勢確立週間を設定、全縣下の下部組織が完全武裝を行ひ、戰ひ拔くことになつた 具体例としてつぎのやうな事項の勵行を要望してゐる
白や赤のやうに目立つ著物は敵機の機銃掃射の目標になるから避けよ▽牛馬の背中に莚を乘せて僞裝せよ▽白壁も泥水に墨をまぜて塗りつぶせ▽隣保の防火責任者をきめて見張りをさす
縣=県/會=会/裝=装/戰=戦/鬪=闘/團=団/拔=抜/勵=励/著=着/乘=乗/僞=偽/墨=墨
【メモ】兵庫県が「戦闘態勢確立週間」を設定し、具体的に指示を出している。日ごとの行事も設定され、1日目=代表者の神社参拝▽3日目=朝はおかゆ、昼は握り飯の決戦食励行▽4日目=待避壕の修築-などを求めている。
■昭和20年6月28日 終戦まで48日
≪新司偵≫戰災協力工場の聲
◇神戸夜間襲空を受けてより早や二ケ月有余を経た、私の工場は依然として燒けた機械が雨に打たれてゐるが、復興命令は出て早く生産せよと親工場、並軍方面よりはいはれる、然し各種出願書類の停滯は確実だ、机の上の仕事はやめて実情を活眼を開いて見て戴き度い、保險金は未だ査定決定せず早く支拂つて戴き度い
◇工具ベルトその他各種の品物が要る、それがなければ機械は廻らぬ、早く必要品を必要な時期に配給して戴き度い、工場給食は有難い、然しそれを飯にする薪を配給量に應じて一緒に配給して戴き度い、決戰だ沖縄決戰だ戰ふ軍官民御互ひに同情しよう
戰=戦/聲=声/神=神/燒=焼/滞=滯/險=険/拂=払/應=応
【メモ】空襲に遭った工場の苦境がつづられた読者投稿コーナー「新司偵」。「沖縄決戦」に言及しているが、実際は6月23日に組織的戦闘が終結。神戸新聞では、27日に「沖縄本島の守備遂に成らず」という内閣告諭を報じている。
■昭和20年6月27日 終戦まで49日
誰だ裏山へ逃げる卑怯者は
警報下、逃避の防空要員に足止め令
空襲警報は逃避警報では断じてない--と神戸長田警察署では警報発令と同時にどん●●同署管内裏山林に逃避してくる防空要員に対してかうした“都市防空を紊す戰列離脱の利敵行為者は嚴罰に処す誓つて持場を堅持し防空生産に敢闘すべし”の警告札を管内各山林口に押し立てた、この立札をみた工場通勤途上の生産人たち「俺らが工場て命をさらして敢闘してゐるのにまだこんなのがゐるのかなア」と逃避者のみにくい姿をそしる言葉もあつた
※●●は「く」を縦に伸ばしたような繰り返しの記号
神=神/戰=戦/嚴=厳
【メモ】空襲警報の発令後、「防空要員」が山林に逃げ込み、防空態勢を紊(みだ)しているとして長田署が警告札を設置。1942(昭和17)年5月に陸軍省と海軍省が連名で出した「永年防空計畫(画)設定上ノ基準」によると、防空要員には官公庁や通信、生産機関の従事者や学徒が含まれており、「諸機關ノ運營竝(並)ニ生産ヲ維持シツツ防空業務ヲ完遂シ得ル」ために配置すると記されている。
■昭和20年6月26日 終戦まで50日
1945(昭和20)年6月26日は紙面が残っていませんでした。
■昭和20年6月25日 終戦まで51日
重責果し 愛兒と共に火焔に散る 鬪ふ民防空の美談
三・一七の空襲、あの日、兵庫區吉田町一丁目に寄居してゐるA氏は、新開地附近の警防團長兼町内會長を勤めてゐたが警報発令と同時に誘導班長の妻女のBさんに後事を託して勇躍持場に出勤した、一時は大丈夫だと思はれたが折から一陣の旋風に町内をも紅蓮の炎の中に巻込んでしまつた
Bさんは町内の人々を神戸駅方面に誘導して八十数名が待避したのを見届けてから四人の愛兒の元に馳付け、一同の後を追つたが忽ち龍巻を起し母子五人を猛火に巻込んでしまつた
A團長は、妻子五人の最期の有様を聞き、暗然としながらも「よくやつて呉れた」と妻の健氣な行動を讃へ、且つ感謝するのであつた
(A、Bは記事では実名)
兒=児/鬪=闘/區=区/團=団/會=会/神=神/氣=気
【メモ】「民間防空」に従事して亡くなった母子の「美談」。当時の紙面では、地域や家庭、職場も「戦場」とする論調だった。
■昭和20年6月24日 終戦まで52日
燒跡に續々綠の農園 市民の食糧基地へ既に三百町歩
戰災地の復興は燒跡の農園化から--港都の戰災地には燒跡の開墾に鍬を揮る逞ましい市民の姿が見られ、戰災地には市民の食糧がすくすくと芽ばへてゐるが兵庫縣が神戸市と協力して開始した戰災跡地の農園化計略は當初の百五十町歩の目標をはるかに突破、町内會の共同農園として二百五十件、二百町歩、團体の戰時農園が六十六件、三十町歩、自家農園としてこのほか一千件、縣立農學校九校の模範農園を加へると三百町歩近い戰災地が食糧增産の基地として復興するわけで食糧決戰に市民の燃えさかる闘魂がはつきり窺はれる
燒=焼/續=続/綠=緑/戰=戦/縣=県/神=神/當=当/會=会/團=団/學=学/增=増
【メモ】焼け跡の「復興」として農園化が進む。1945(昭和20)年7月上旬に兵庫入りした内閣顧問八角三郎氏の査察資料には、5月20日時点の神戸市内の「農園割当」として、町内会分で487件、44万2290坪と記されている。
■昭和20年6月23日 終戦まで53日
待望の水道が復活 燒跡に嬉しい野天風呂
神戸市民への給水は市當局の復旧作業により二十日から市内の燒け跡の一部を除いて一斉に開始された、夏へ向つて燒け跡のバラツクや壕に敢闘する市民もこの援軍に数丁も先への貰ひ水をしないですむやうになり水の不安もこれですつかり解消、狹いバラツクの部屋の一隅に溜つた洗ひ物が出來るぞと明るい喜びを燒跡のアチラコチラに点綴した、葺合區の工場街附近には燒残りの大釜や樽を持ちより急製の風呂をたて燒跡に吹く初夏のそよ風に樂しい都市戰陣のひと時をすごすのが見受けられた
燒=焼/神=神/當=当/狹=狭/來=来/區=区/樂=楽/戰=戦
【メモ】神戸市内の空襲被害は水道施設にも及んだ。「神戸市水道70年史」によると、送排水管だけでも261カ所が被害を受け、漏水率は平時の27%程度から80%にまで増大。給水戸数6万9961戸のうち完全に給水できるのは約2万戸にとどまったと記されている。
■昭和20年6月22日 終戦まで54日
B29の搭載爆彈增加 敵既に十一万四千噸を投下
昨年六月成都基地のB29が九州地區に初空襲を行つてから満一ケ年になるが、最近の桑港放送は
「過去一ケ年間に超空の要塞が日本本土に投下した爆彈、燒夷彈の総量は十一万四千噸でありその中五万四千噸は最近二ケ月間に投下されたものであつて対日空襲激化を語るものである
といつてゐる去る六月五日の神戸地區空襲で敵は三百五十機を出動、約三千屯の燒夷彈を投下したといつてゐるところから見て大体一機五-六屯といふところであらう
彈=弾/增=増/區=区/燒=焼/神=神
【メモ】「桑港」とは米サンフランシスコのことで、日本向けラジオ放送の制作拠点があった。「超空の要塞」はB29の米国側の呼称。日本大学の小林聡明教授によると、放送は日本の報道機関なども聴いていたが、内容をみだりに流布すると摘発されたという。この記事については「空襲が非人道的だと強調するため、米国のプロパガンダを逆用した」とみる。
■昭和20年6月21日 終戦まで55日
自給自足でやらう 最も手輕な海水 漬物やお醬油にも一寸の工夫
最近神戸でも須磨方面で塩不足を補ふため大分海水を利用してをり普遍化する勢にある、土地の人々に使用法をきいてみよう、
海水を利用するといふことは何もいまにはじまつたことではなく、大東亞戰争以前でも漬物のあさ漬けには使用してをりました、一度海水につけてそのあとで改めて本漬けします、塩が少量で済むといふのが大きな狙ひです、そのほかでは醬油不足を補ふため醬油と海水を適當に混合して漬物にかけるとか一寸した煮出しにつかふとかの方法がとられてゐます
輕=軽/海=海/醬=醤/神=神/亞=亜/戰=戦/當=当
【メモ】塩の不足を海水の塩分で賄っている。塩事業センター(東京)によると、もともと塩は国の専売制度で管理されていた。太平洋戦争後、製塩に必要な石炭などの燃料不足や輸入の減少によって配給制になり、1942(昭和17)年5月には自家製塩を認めるなど深刻化していた。
■昭和20年6月20日 終戦まで56日
《新司偵》乳兒の親は愬ふ
◇…乳兒の牛乳不足で區役所に增量を頼んだところこの際乳量不足で不可能とのこと、しかるに附近の配給所では規定時刻を一分でも過ぐれば配給を拒むのみならず每日一人に二合、時には一升の牛乳を自由販賣し、店頭に長蛇の列を作らせてゐる
◇…乏しいのなら辛抱もするまた大人なら我慢もする、しかし自由販賣できるほどあるものを、乳兒や病人に配給しないのは不可解だ、區役所はこの実情を知つて生きた政治をまた商人は正しい商道を歩んでほしいものだ
兒=児/區=区/增=増/每=毎/賣=売
【メモ】読者投稿コーナー「新司偵」で、乳児の親が牛乳配給の不平等を愬(うった)えている。厚生省(現・厚生労働省)がまとめた「國民日常生活ニ關スル件」によると、1944(昭和19)年5月時点で、牛乳を「乳兒ニ付テハ生命ヲ託スル一日モ缺(欠)ク可カラザル必需食糧」としつつ、殺菌や瓶の消毒に必要な石炭不足を理由に「配給量激減ノ傾向ニアリ」と危ぶんでいる。
■昭和20年6月19日 終戦まで57日
敵機雷投頻々 神戸、關門など
十七日午後十時すぎ敵大型約八機各々單機で紀伊水道から侵入、神戸、須磨附近海上に機雷投下の後紀伊水道から脱去、別に約七機はこれと前後して各々單機で豊後水道を北進、周防灘、関門附近に機雷投下の後脱去
また午前十一時ごろPBY4二機が四國東南端に侵入、阿波灘紀伊西南岸を行動後紀伊水道より脱去、別に同時刻ごろ志摩半島西部より侵入、熊野灘を西南進したB24一機は周参見附近より西北進、田辺、簑島を経て反轉、紀伊水道より脱去した、同機は印南附近で銃擊、簑島附近に機雷投下の模様
神=神/關=関/單=単/海=海/國=国/轉=転/擊=撃
【メモ】機雷とは、水中に設置され、艦船が接近すると爆発する兵器。太平洋戦争中、日本の海上交通の途絶を狙った米軍が「飢餓作戦」と称して日本近海に投下した。米軍側の資料によると、延べ1528機が1万2053発を投じたという。
■昭和20年6月18日 終戦まで58日
神雷に郷土勇士 有馬町A一飛曹の武勳
沖縄方面の敵機動部隊に必死必沈の体當り攻擊をかけて悠久の大義に殉じた我が神雷特攻隊三百卅二勇士若櫻の中に有馬郡三田町出身B氏(42)長男A一飛曹がある
三田中學から予科練を志願、昨年七月後輩在校生へ“豫科練に入らずば男でない”とまで雄弁をふりまき三田町、有馬町両校少年にも決戰下の軍人志願を強調して先生達までが感激した
母Cさんは語る
こんなに早く特攻の名を擧げてくれるとは夢にも思つてゐませんでした、Aは今こその時を選んだのでせう
(A~Cは記事では実名)
神=神/勳=勲/當=当/擊=撃/櫻=桜/學=学/練=練/豫=予/戰=戦/擧=挙
【メモ】神雷部隊は、海軍の特攻兵器「桜花」の運用部隊。1945(昭和20)年4月12日付の「戰鬪行動調書」によると、標的の米艦隊近くまで桜花を搬送する攻撃機の偵察員にAさんの名前があり「未帰還」と記されている。
■昭和20年6月17日 終戦まで59日
決戰に必勝する政治は 日政縣支部懇談會で 南總裁必勝の確信を吐露
大日本政治會総裁南次郎大将は十五日、神戸市會参事會室において懇談を重ね、現下の戰勢は不利ではあるが悲觀する必要はない、軍事的見地より必勝を断言し得るが、國民と共に行ふ決戰に必勝する政治の実現を期すべきであるとし、左のごとき力強い所見を開陳、縣支部役員を激勵した
兵庫縣が日本の戰力に占むる地位実力は説明するまでもない、大なる戰災を受けたがこの中に眞の戰力が生れることを確信する、今こそ渾身の勇氣を揮つて兇敵擊滅に邁進せねばならぬ
戰=戦/縣=県/會=会/總=総/神=神/觀=観/國=国/勵=励/眞=真/氣=気/擊=撃
【メモ】大日本政治会は、1945(昭和20)年3月結成の政治団体。書籍「戦時議会史」は、国民を基盤とした組織を掲げたものの、前身の翼賛政治会の換骨奪胎に過ぎず「依然軍部による独裁政治の下部機構に外ならな」かった-と指摘する。終戦後に解散した。
■昭和20年6月16日 終戦まで60日
地下長屋の前驅です 共同生活壕 見事堤防利用
長田區内には新湊川の堤防を利用した多数の要塞住宅がある、同區四番町土木建築業Aさんの半地下式住宅もその一つだ、Aさんは去る二月四日の神戸初空襲から、從來のやうな地上の住宅は決して安全でないと人に魁けてつくり始めたのがこれだ、ふだんは老父だけがここに住み、Aさん夫婦は前記の場所で生活してゐる
この壕舎は地上から一間以上も掘り下げ、床は六枚の疊を敷いてゐる、北側はコンクリートの堤防だが、東、西、南の三方の壁は粘土で固め、多数の三寸角の木材で支柱としてゐる
(Aは記事では実名)
驅=駆/區=区/神=神/從=従/來=来/疊=畳
【メモ】新湊川の堤防を壁に活用した生活壕の話題。書籍「歴史が語る湊川 新湊川流域変遷史」によると、現在の新開地周辺を流れていた旧湊川の水害を機に新湊川への付け替え工事が始まり、1901(明治34)年8月に完了した。
■昭和20年6月15日 終戦まで61日
潑剌、夏に戰ふ“ヨイコの教室”
満州事変、支那事変を経て大東亞戰の嵐の眞只中に學び育つて來たヨイコ等少國民-かつてのもの静かな情操教育は根底から覆へされて、ただ大東亞戰を勝ち拔くことにのみ行學一如の戰時教育の陣營下に編成されたのである、土と取つ組み、炭に黑ずみ働きつゝ學ぶヨイコ達の勞苦は唯戰ひ勝ち拔かんがための少國民として確固たる信念のもとに嬉嬉として戰ひ續けてゐるのである、強烈な初夏の太陽の下で草刈りの一時を、レンズを通して火を燃やす理科の実驗を學ぶ尊い体驗こそ涙ぐましくも尊い姿ではなからうか
潑=溌/戰=戦/亞=亜/眞=真/學=学/來=来/國=国/拔=抜/營=営/黑=黒/勞=労/續=続/驗=験
【メモ】当時の記事では、現在の小学生を「少国民」や「ヨイコ」と表現するケースが目立つ。少国民は「年少の皇国民」の意味とされ、当時の初等教育機関は「国民学校」。その1、2年生の「修身」の授業で使われていた教科書が「ヨイコドモ」だった。
■昭和20年6月14日 終戦まで62日
縣下に學徒隊を編成 隊長に持永知事を推戴 六月中に完了
本土決戰に勝ち拔く學徒の総蹶起態勢を固めるため兵庫縣では六月中に全縣下の學徒を動員する學徒隊を編成することになり、十六日國民學校、青年學校の學徒隊編成につき打合せを行ふほか十七日神戸市および攝津、丹波、十八日但馬、播州、淡路の中等學校長を集めて指示するが縣學徒隊長には持永知事を推戴、市は市長が名譽隊長、隊長は校長のうちから知事が任命するが職場に出勤中の學徒は職場學徒隊を編成、関係學校教職員中の適任者を隊長に選び、集團疎開學童は受入地國民學校の學徒隊に編入する
縣=県/學=学/戰=戦/拔=抜/國=国/神=神/攝=摂/譽=誉/團=団
【メモ】本土決戦を想定し、兵庫県が当時の持永義夫知事を隊長とする「学徒隊」を編成。書籍「国民義勇戦闘隊と学徒隊」によると、学徒隊は国民義勇隊に編入され、米軍の本土上陸時は「熾烈な最前線での戦闘が前提」とされた。
■昭和20年6月13日 終戦まで63日
一括登錄の用意を 被爆地に殘る戰災者の配給所
“勝利の日まで頑張るぞ”と被爆の跡で壕生活やトタン小屋に戰ふ市民が次第に多くなつて來たが神戸市物資局では食糧確保のため次のやうな対策を樹て近く実施する
戰災者にして給與(五日分)を終つたものは從前の一般隣保配給に復帰されるので燒跡にとどまる戰災者に対しては残留者を一括しその附近に配給所を設け諸物資を配給する
市當局では燒跡残留者は配給物資を受けるに都合のよいやう附近の残留者が相談の上、一括登錄等の用意をせられるやう希望してゐる
錄=録/殘=残/戰=戦/來=来/神=神/與=与/從=従/燒=焼/當=当
【メモ】焼け跡で生活する戦災者への配給方法の話題。1945(昭和20)年7月上旬に兵庫入りした内閣顧問八角三郎氏の査察資料によると、6月5日の空襲後、5631石(1石=約150キロ)の米穀が救護物資として支給され、神戸市の備蓄が4万1311石になったと記されている。
■昭和20年6月12日 終戦まで64日
さあ笑ひの腹ごしらへで 戰災者に慰安會
灘署では戰災者の戰意昂揚と一日も早く復興生活の再建を目指して乘り出して下さいと藝能突擊慰問團の援助を得て十日から五日間、管内各戰災者收容所で戰災者慰問大會を開催してゐる、會場または日定はつぎの通り
十日稗田校、十一日成徳校、十二日西灘校、十三日六甲松竹、十四日六甲校、十五日高羽校となつてをり戰災者に限り無料であるが、笑つて復旧に協力してほしい建前から非戰災者の來場も要望されてゐる、なほ同大會開催の動機は同區稗原町一丁目、A氏が藝能突擊慰問團を組織し慰問奉仕を持込んだもの
(Aは記事では実名)
戰=戦/會=会/乘=乗/藝=芸/擊=撃/團=団/收=収/來=来/區=区
【メモ】国民学校などで避難生活を送る市民に灘署が慰問を計画。「灘警察六十五年のあゆみ」によると、灘署の庁舎は5月11日の空襲で東側に爆弾3発を受けて半壊していた。
■昭和20年6月11日 終戦まで65日
罹災者の無賃乘車は 特に十五日まで引續き認める
兵庫縣では今回の罹災証明書による汽車の無賃乘車を十日までと限定してゐたが、特に五日間を延期し十五日まで引續き認めることとし、新に明石、西宮方面の戰災者に対してもその附近駅からの無賃乘車を認めることとなつた
なほ十五日まで延期はしたが、最終日まで居残つて交通の混雑をさらに加重させることのないやう、なるべく早く縁故疎開するやうに縣では希望してゐる、また出來得ればそれまでに臨時列車を出すやう目下鉄道局とも交捗中であり決定次第発表する
乘=乗/續=続/縣=県/戰=戦/來=来
【メモ】6月5日の空襲の被災者に対し、汽車に無料乗車できる期間を兵庫県が延長した。疎開に伴う利用などを考慮した対応とみられる。一方、この日の紙面には各鉄道の運行状況も載っており、京阪神急行(現・阪急電鉄)は六甲から西の区間で運転を見合わせ、山陽電鉄は西新町-林崎間が不通となっている。
■昭和20年6月10日 終戦まで66日
戰災者を集團歸農 縣下及び岡山、鳥取へ
今次空襲による戰災者の身の振り方につき兵庫縣では九日から身上調査を開始し、縁故のないものの集團疎開につき都市疎開と兼ねて食糧增産を推進するため集團帰農を実施することになり、今月二十日ごろには受入地へ送出する
受入地は本縣内と岡山、鳥取両縣で一万五千戸送出する計画をこんど一万戸送出を目標として希望者を募集する、農作業や製炭、松根油生産の應援、婦女子は農繁期共同炊事、共同託兒、裁縫の手傳ひ等能力に應じて戰力增強の部面で活躍し、居食ひする者や健全な農村に悪影響をもたらす恐れある者は排除する
戰=戦/團=団/歸=帰/縣=県/增=増/應=応/兒=児/傳=伝
【メモ】疎開と食糧増産を兼ねて「集団帰農」を兵庫県が計画。1945(昭和20)年3月に閣議決定された「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」では、縁故疎開、学童疎開、学徒の農村進出などとともに集団帰農が明記されている。
■昭和20年6月9日 終戦まで67日
戰災者に煙草とお酒 援護會が生活必需品も配給
兵庫縣戰災援護會支部では今次空襲による戰災者を慰問激勵するため専賣局と交渉して戰災を受けた成年男子一人につき煙草一個宛無料で贈るとに決定したほか酒を一合づつ給與すべく税務署と折衝中である
また戰災者の生活復興になくてならぬ生活必需品を確保するため買上備蓄中の寢具、衣料、食 器類および新品を罹災地の市町村に拂下げ、神戸市は各區役所その他は市町村を通じ戰災者に配給、最低必需量は絶対に確保しやうと鋭意準備を進めてゐる
戰=戦/會=会/縣=県/勵=励/賣=売/與=与/寢=寝/拂=払/神=神/區=区
【メモ】空襲の被災者に、兵庫県がたばこを贈る方針を決定。「たばこ専売史 第2巻」によると、工場の戦災や原料の減産によってたばこの製造高は1943(昭和18)年度=約811億本▽44年度=約633億本▽45年度=約357億本-と激減。44年11月からは配給制が始まった。
■昭和20年6月8日 終戦まで68日
疎開の子は元氣一ぱい 第二の故郷〝谷内村〟で開墾の鍬
學びのお父さん……A先生に引率され飾磨郡谷内村に疎開してゐる神戸、稗田校のヨイコドモ三十名は最近新しく十人のお友達をむかへたが、嬉しかつたのはさらに二人の優しいお母さんを持つたことだつた、その一人はB先生、いま一人はC寮母さんだが、皆はスクスクと伸び陽灼けした肌色も逞しく先生や村の少國民に教へられて鋤鍬を揮ひ開墾することを覺へた
戰災學童も合流疎開
神戸市内残留學童で今次の空襲によつて戰災を被つた兒童に対し、神戸市では希望により集團疎開を受附け、すでに疎開してゐる集團學童と合流させる
(A~Cは記事では実名)
氣=気/學=学/神=神/國=国/覺=覚/戰=戦/兒=児/團=団
【メモ】現在の姫路市東部に疎開した稗田国民学校(現・稗田小学校、灘区)の児童が開墾に取り組む。神戸に残り、6月5日の空襲に遭った児童の疎開受け付けの記事と合わせて掲載している。
■昭和20年6月7日 終戦まで69日
擊墜、擊墜また擊墜 見よ今ぞ醜翼の末路だ 制空部隊阿修羅の奮闘
一機、さらに一機また一機、一團の猛火となつて燒け墜ちる敵機B29の断末魔!白晝神戸市民の眼前に次々と擊墜された憎くき醜翼の火焔達摩だ、見たか、おゝわが空地制空部隊の嚴たる威力、五日早朝神戸阪神方面を襲つたB29三百五十機に対し擊墜五十六機以上、擊破百四十四機以上といふ大戰果を擧げたのだ
擊=撃/團=団/燒=焼/晝=昼/神=神/憎=憎/嚴=厳/戰=戦/擧=挙
【メモ】1945(昭和20)年6月5日午前にあった4回目の「神戸大空襲」。市街地全体が壊滅的な被害を受け、以降、神戸は米軍の攻撃目標から外れたとされる。日本側の反撃を強調する記事中の戦果は、撃墜56機以上、撃破144機以上。空襲に詳しい元尼崎市立歴史博物館職員の辻川敦さんによると、米軍資料では、この日出撃したB29爆撃機531機のうち日本側の迎撃による墜落は9機、損傷は166機という。
■昭和20年6月6日 終戦まで70日
1945(昭和20)年6月6日は紙面が残っていませんでした。
■昭和20年6月5日 終戦まで71日
地域職域國民義勇隊結成 隊長以下幹部の人選も殆ど完了
兵庫縣の國民義勇隊結成は五月十七日の縣本部結成以來地域、職域組織の変遷を急いでゐるが、同三十一日現在縣にまとまつた報告によると郡聯合隊二十五のうち二十三郡が幹部の人選を完了、十五郡は結成式を行つたが郡聯合隊長はその殆どが町村長會長または縣會議員で新鮮味に乏しい憾みがある市部では十市のうち九市が幹部人選を了り、六市は結成式を済ませてゐる
國=国/縣=県/來=来/會=会
【メモ】国民義勇隊は、1945(昭和20)年3月に閣議決定された「國民義勇隊組織ニ関スル件」で定められた。本土防衛の強化が目的で、大政翼賛会や大日本婦人会などの組織を統合。書籍「日本本土決戦」によると、「老幼婦女子」を除く2800万人の総動員を予定し、食糧増産や災害復旧、陣地構築などを主任務とする一方、米軍の本土上陸の際は「『国民義勇戦闘隊』に改編して戦闘に参入させる」ことが検討されていたとしている。
■昭和20年6月4日 終戦まで72日
不屈“神戸の面魂” 戰災者篇
一面焦土の旧湊東區某町の一角にトタン張りの家が建られてゐる、その簡素な家中で炊事し洗濯し就寢もする戰災者の逞しい生活振りが見られる、飲食店「ねぼけ」の主人A氏(52)の起上りの姿である
三月十七日の空襲の夜、この地域にも無数の燒夷彈が落下したA氏は炊事道具を壕の中になげこんで待避した「これさへあればと三月十九日から燒跡で生活を始めて居ります」
「何が一番不自由ですか」
「電氣と水です、だから夜は早く寢ることにしてゐます、ちよつとやそつとのことで神戸を立退くもんですか、勝つまで頑張り ます、かふいふ生活をして自分も戰争をしてゐるといふ切実感をひしひしと感じて居ります
(Aは記事では実名)
神=神/戰=戦/區=区/寢=寝/燒=焼/彈=弾/氣=気
【メモ】空襲で焼け出された男性と記者のやりとり。湊東区(そうとうく)は、現在の中央区と兵庫区の一部。
■昭和20年6月3日 終戦まで73日
《家庭作戰》決戰夏のお台所
六月から神戸市内の家庭へ米替配給される食用粉(丸玉蜀黍粉一〇、馬鈴薯澱粉三の割に混入したもの)を主材とした主食用調理法をお傳へしませう
[ゾロ飯]米一、水七の割合にしかけ粥炊きにし沸騰して來たら重みとして米の二割の食用粉を湯ときして入れかきまぜて後塩味をつけうまして置く、これに今しゆんの露草、のげしなどの食用野草や持合せがあれば野菜を入れると榮養満点です
[團子]食用粉を湯でこね、厚さ一糎位の團子を作り、茹でる場合は七分間、蒸す場合は十分間程度にし熱い内に黄粉をまぶすとよい
戰=戦/神=神/傳=伝/來=来/榮=栄/團=団
【メモ】米不足が深刻化し、代わりに配給されるトウモロコシとジャガイモの粉を混ぜた食用粉の調理法を紹介している。「生活必需物資統制令」により、神戸では1941(昭和16)年4月から、米などの穀物を国が管理して割り当てる配給通帳制が続いていた。
■昭和20年6月2日 終戦まで74日
地方鐵道應急 復舊實施要領
兵庫縣輸送課では今後ますます激化するであらう空襲に対應して戰災後の人心安定と要員輸送線の確保をはかるためかねて二回の空襲体験から割出した「戰時地方鉄道軌道應急復旧実施要領」を練つてゐたが、三日神戸で開かれる地方鉄道軌道協會総會の席上その指示説明が行はれることになつた
鐵=鉄/應=応/舊=旧/實=実/縣=県/戰=戦/練=練/神=神/會=会
【メモ】空襲を受けた場合の応急的な復旧手順を兵庫県が鉄道各社に説明するとの内容。「即日復旧の強行」を掲げ迅速な通報や復旧工事指揮所の開設を求めている。
なお、この記事における鐵と鉄▽舊と旧▽實と実-のように、見出しと本文で字体が違う文字が当時の紙面に散見される。1942(昭和17)年12月に文部省(現文部科学省)が出した「標準漢字表」では、見出しの鐵、舊、實が当時の標準漢字で、本文の鉄、旧、実は「簡易字體(体)」として定められている。
■昭和20年6月1日 終戦まで75日
港灣作業も作戰に直結 神戸港揚搭司令部設置
大本營の直轄、神戸港揚搭司令部が設置された、指揮官はA海軍少佐で、船舶運營會、港湾會社、陸上荷揚組合、食糧營團など港湾関係の諸團体組合が全部A指揮官命令のもとに動くわけで、港湾作業は戰争一本の重点的に行はれる 内海に敵の機雷が投下されて本土戰場の相貌が濃くなつたために港湾作業の意氣が大いに揚り親方の命令で動いてゐたものが今度は軍人が指揮に當るので直接戰場に結びついてゐると作業も懸命だ、勞務的隘路は一掃され揚搭司令部の命令一下のもとに運營されてゐる
(Aは記事では実名)
灣=湾/戰=戦/神=神/營=営/海=海/會=会/社=社/團=団/氣=気/當=当/勞=労
【メモ】「揚搭」とは、物資などの陸揚げと搭載のこと。「國家船舶及港灣一元運營實施要綱」などによると、主要港に司令部が置かれ、指揮官の業務として陸海軍の輸送関係部隊の統一指揮と官民機関の活用が記されている。