6月13日に始まったイスラエルとイランの交戦は24日に停戦合意に至ったが、両国の市街地には大きな被害が広がった。情勢の悪化を受け、日本政府の手配でイランから66人の邦人らが緊急帰国。その中に、首都テヘランの日本人学校の子どもや教諭らがいた。校長の西田隆之さん(60)は兵庫県丹波市出身。「12日間の戦争」を振り返り、「美しい街の平和が壊され、怒りを覚えた」と語る。(那谷享平)

 日本人学校は現地の日本人会などが運営し、文部科学省が教員を派遣する。通っているのは主に大使館職員や企業の駐在員の子どもたち。西田さんは丹波市立小学校の校長を58歳で早期退職し、2023年春からテヘランで校長をしている。

■夜間の攻撃、太鼓のような地響き

 イスラエルの先制攻撃があったのは13日の未明。アパートで就寝中だった西田さんは、ドンという鈍い音で目を覚ました。上階の住人の足音かと思い再び眠ろうとすると、携帯電話が鳴った。「テヘラン市内にミサイルが撃ち込まれました」。電話口の大使館職員が言った。

 「またか」と思った。着任以降、市内の軍事施設への攻撃は散発的に何度か起きた。24年の春と夏にも情勢悪化でイランから退避を余儀なくされていた。この日はもともと学校が休み。そのまま起床し、児童生徒計8人と教諭5人の無事を確認した。

 つけっぱなしにしたイラン国営テレビは、同じ現場の映像を繰り返し流していた。そこは自宅から車で10分ほどの距離で、サラミ司令官が殺害されたという。あとは有識者たちがスタジオで討論している。「プロパガンダばかりだな」。英国の国営放送BBCを見ると、イスラエルのテルアビブ側の被害ばかりを取り上げていた。

 最初の2日間、攻撃は夜間だった。テヘランに空襲警報はない。「リズムを外した秋祭りの太鼓」みたいな響きで、攻撃に気づく。イランの対空砲がイスラエルのミサイルを撃ち落とす音だ。太鼓が鳴っている間に窓の少ない自宅真ん中の部屋に移る。対空砲の音が途切れると、ドンと地響きがする。「今のどこやったんやろ」。ミサイルが着弾したらしい。

 日本人学校のイラン人スタッフらは市外への避難を始めたが、町中の清掃員や工事現場の作業員は働いていた。西田さんは「こうした仕事はアフガニスタンからの難民がやっていることが多い。イラン人と違って逃げにくいのかもしれない」と話す。市内では売店も営業を継続しており、「昨日の夜は眠れたかい?」と軽口を言う店員もいた。

■オンライン授業、「爆弾の音がしたら中止」

 情勢が一気に悪化したのは3日目の6月15日だった。イスラエルが市内の石油施設を空爆。市内の空に黒煙が広がった。

 「窓は閉め切り、外出時はマスク。人が住んでいる所にも撃ち込まれたらしい。今までイスラエルは夜に軍事施設を狙っていたが、もうルールがなくなった。世界の批判に耳を傾けないイスラエルは、遠慮なく撃ち込んでくるだろう」

テヘランの日本人学校で校長を務める西田隆之さん。共に帰国した子どもたちのため、オンライン授業も開始した=丹波市内

 この日、子どもたちは学校には登校せず、授業はオンラインで実施。「爆弾の音がしたら授業を止め、自宅内で一番安全な場所へ」と指示してあった。6時間目。市内のどこかに爆弾が落ちた。しばらくしてオンラインルームに子どもたちが顔を出す。「こんなのは異常だ」。西田さんは学校関係者たちの帰国を決めた。

 「最初は『死ぬんかな』とも思いました。軍の施設はどこにあるか分からない。もし近くにあったら、ミサイルは当たらなくても火災に巻き込まれるかもしれない。同じアパートに政府要人が住んでいないことを願いましたね」。火事や断水に備え、浴槽には水を張り、ペットボトルに水をためて過ごした。

 翌16日、状況はさらに悪化した。標的がインフラ施設に変わった。警察、電話局、国営テレビ局…。水道が破壊されたのか、近所のバザールが車のタイヤ半分の高さまで水浸しになっていた。「明らかに市民を困らせるための攻撃」だと思った。イスラエルの国防相は「テヘラン市民が代償を払う」と息巻いていた。

 昼夜を問わない対空砲は耳鳴りのようだった。聞いているうち、どんどん音に敏感になった。風の音や小さな物音を対空砲と勘違いし、夜中に目を覚ましたこともあった。学校にいる時は、トイレに机と椅子を持ち込み、もしもの時も長時間過ごせるようにした。壁に囲まれ、静かな空間が落ち着いた。

 市内でどの地区が攻撃されるかは、ある程度、事前の通知があった。例えば16日夕の大使館からのメール。「イスラエル国防軍は、下記X(旧ツイッター)への投稿にて、テヘラン市第3地区の以下地図に滞在する人々に対し、避難警告を出しました」。直接の電話も入り、「校長、その近くに先生が一人住んでいましたよね。避難させてください」

 現地スタッフのドライバーを手配すると同時に、該当の女性教諭にできればタクシーで避難するよう指示する。「タクシーがつかまりません」。電話口の女性は泣きそうな声をしていた。その後、なんとかタクシーを確保し、大使館に到着。30分後に爆撃が始まった。大使館の連絡から2時間しかたっていなかった。

■核施設攻撃のパニックは広がらず

 「ただ不思議なもので、だんだん慣れてくるんです。何となく自分にはミサイルは当たらないという錯覚に陥る。そんな保証はどこにもないのに。その女性教諭も次の日には自宅に帰りたがった。攻撃中止の発表はない。でも『自分の家の方が安心です』と」

 西田さん自身もそうだった。大使館からは「いつでも避難してきて」と言われていたが、18日まで行かなかった。

イスラエルとの交戦激化で住民たちが避難し、閑散とするテヘランの通り(西田隆之さん提供)

 ミサイルは連日落ちていたが、現地ではほとんど報道されていなかった。相変わらず初日に司令官が殺害された現場を映している。

 ただ、番組は減り、スタジオ討論もなくなり、事前制作の映像が多くなった。あるコマーシャルでは「ファースト・ガザ ナウ・テヘラン(最初にガザ、今はテヘラン)」の文字が出ていた。人形を抱えて逃げ惑う女の子のイメージ映像や、自国のミサイルの紹介、反イスラエルのデモ行進の様子も流れていた。

 イスラエルは核関連施設も攻撃していたが、「この影響によるパニックは広がらなかった」そうだ。一方、18日夕にインターネット回線が一斉に遮断されると、イラン人のスタッフから焦りの電話がかかってきた。イランの当局が遮断したらしい。「それまで毎日家族と安否確認できていたので、あれは怖かった。学校のみんなとは、『連絡手段がなくなったら大使館に集合』と申し合わせていた」という。

 米国参戦の可能性も高まっていた。トランプ大統領は18日、攻撃を「やるかもしれないし、やらないかもしれない」と口にした。日本政府は陸路での邦人の退避に向け、調整に入っていた。

■「イスラエルに勝てるなんて思っていない」

 西田さんは同僚の教諭や児童生徒たちと一緒に19日、日本政府の手配したバスでテヘランをたった。所持品はスーツケースとキャリーケース1個ずつまで許された。20時間かけて隣国アゼルバイジャンのバクーへ。ペルシャ語の話せる大使館職員が帯同し、文部科学省もホテル手配や入国申請を進めてくれた。

 帰国の道中、西田さんが安心や感謝の思いとともに感じたのは怒りだった。

 「僕はイランが好きだし、テヘランは人も優しく、美しい街。人が住むエリアにミサイルが撃ち込まれ、平和な暮らしが壊されたことが非常に腹立たしい」

 テヘランに着任して以降、現地のイラン人から自国の政治情勢への文句は聞いても「イスラエルをやっつけたい」「戦争したい」と聞いたことは一度もないという。「そもそもイランの人たちは、イスラエルと真っ向勝負して勝てるなんて思っていない」と西田さんは言う。

 21日にバクーを離れ、日本時間の23日未明、羽田空港に到着した。米軍がイラン本土を初めて直接攻撃したのは、一行がフライト中の22日。イランはこれに対し、カタールの米軍基地にミサイルを飛ばして応じた。

オンライン授業で新潟県にいる1年生に算数を教える西田隆之さん=丹波市内

 西田さんは23日に丹波市の自宅に帰ると、翌24日には共に帰国した子どもたちに向けてオンライン授業を再開した。交戦が激化した後も子どもたちは落ち着いていたが、「心のケアのためにも日常的に接する必要がある」と判断した。

 25日午後の授業は小学1年の算数。繰り上がりのない足し算と引き算を教えた。子どもの元気な顔は、自身にとっても癒やしになっている。

 計算の合間に画面越しの男児に尋ねた。

 「向こうでは怖くなかったかい?」「ううん、だって去年も戦争やってたもん。だから慣れっこ。僕一人でも平気だよ」

 西田さんは音声マイクのスイッチを切ると、こうこぼした。「本心を語っていないと思うんですよ」。今はオンラインという限られた環境で、幼い心の動きを捉えようと、パソコンの画面に目を凝らす日々だ。

 「12日間の戦争」で死者は約630人に上り、うち約600人がイラン側だった。「イランは文化も産業もしっかりしている。平和さえあれば、もっと発展できる国のはずなんです」。祈るように、西田さんが言葉を絞った。

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