仁西上人像
仁西上人像

 前回記したように、平清盛が心西入道の名前をかたって温泉寺に法華経を奉納し、高倉天皇と娘の徳子との間に子供ができるように祈願しに来たかどうかは分かりませんが、その15年後に安徳天皇が生まれます。しかし平家は滅亡の道を進み、1185年3月、壇ノ浦の戦いで平家は破れ、安徳天皇は入水します。

 その4カ月後の1185年7月9日、文治大地震が起こります。平家物語には「このたびの地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、平家の怨霊にて、世のうすべきよし申あへり」と記されています。文治大地震で有馬温泉も崩壊したと思います。その有馬を復興したといわれるのが仁西(にんさい)上人です。有馬温泉の恩人の一人として、毎年正月に開催される入初式(いりぞめしき)で行基像とともに仁西上人の像に初湯を供えています。

 仁西上人が復興の際に12の宿坊を開いたと言われていますが、これは江戸時代に林羅山が言い出した話で、鎌倉期に書かれた藤原定家の明月記には〇〇坊という宿名は出てきません。出てくるのは湯口屋や東西屋という宿名です。そして仁西上人の名前は有馬と吉野の川上村にしか見当たりません。1333年8月24日の日付で、吉野川上郷高原惣中進状(木版)に「建久2年、仁西上人は、おつげにより薬師如来と共に高原の里人数名と報恩寺に入り、有馬温泉の再興に尽力した」と書かれています。

 こういうことが考えられそうです。平家一門は壇ノ浦の戦いですべて滅んだかというと、そうではありません。また、源頼朝に刺客を送られた義経が奥羽まで逃げることができたのは吉野の山の民の応援があったからだと言え、弁慶は山の民だったとも言われています。また、義経の彼女の静御前は「白拍子」、つまり遊芸の民と呼ばれている人々に属しています。

 当時は常に時の権力者を超える存在として天皇がいて、権力者たちは天皇に認めてもらうことで権力を振るうことができました。誰かが「天皇が有馬の湯に行きたくなったので、山津波で埋もれている有馬を再興せよ」と言ったんじゃないでしょうか? そして復興チームを編成した。木工ができるので吉野の木地師、そして白拍子たちを接客係に雇用する。トップに平家の落人のそれなりのポジションの人、平維盛(これもり)を出家させて仁西と名乗らせたのではないかと。日本各地に平家の落人伝説がありますが、いずれもひなびた場所。有馬みたいに目立つ場所はありません。時の権力者公認だったと思うのです。

 遊芸の民「湯女(ゆな)」をルーツとする有馬芸妓が、毎夜踊りを披露する有馬温泉の夏の風物詩「有馬涼風ビアガーデン」が、7月26日から8月18日まで開催されています。ぜひお出かけください。(有馬温泉観光協会)