■息子弔う 朝鮮の言葉で
窓際に白いひつぎが置かれている。簡素な祭壇が設けられ、遺影が立てかけられている。写っているのはスーツ姿の青年だ。着の身着のままの家族や親族がうつむき、ハンカチを手に涙をぬぐっている。
1995年1月。神戸市長田区にある西神戸朝鮮初中級学校(現・初級学校)の教室で、在日コリアンの葬儀が営まれた。朝鮮語の読経が響いている。教室に入りきれない同胞が廊下にあふれている。
校庭に霊きゅう車が入ってくる。青年の同級生たちがひつぎを持ち上げる。仲間が別れを惜しんで叫んでいた。
「朝鮮の言葉で、朝鮮のやり方で、弔ってあげたかったんや」
私たちは葬儀が営まれた初級学校の教室で、崔敏夫(チェミンブ)さん(83)に話を聞いている。息子を見送った29年前を思い起こし、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
阪神・淡路大震災で、20歳だった次男の秀光(スグァン)さんを亡くした。敏夫さんは震災直後から取材に応じてくれ、現在は語り部として経験を伝えている。父は戦前、朝鮮半島から日本へ渡り、敏夫さんは神戸市須磨区で生まれた。神戸新聞の紙面にも何度か出ていただいているが、在日コリアンとしての半生を積極的に話すことはなく、教室での葬儀のことを聞くのも初めてだった。
敏夫さんが子ども用のいすに腰をかけ、窓の方を指さす。
「ここに息子、寝かしとったからね。余震がしょっちゅう起きて、そのたびにびくっとして。でも、知り合いが集まっていたから、気が楽やったわね」
95年1月17日早朝。神戸市須磨区千歳町1の自宅で、敏夫さんは「ドーン」という地鳴りのような音で目を覚ました。何が起きたか分からない。2階に敏夫さんと妻の李福子(リボッチャ)さん、高校生だった三男秀英(スヨン)さん。1階に秀光さんがいた。下に降りようにも階段がつぶれてなくなっていた。
どれだけ時間がたっただろう。外に出て車用のジャッキを使い、ようやくがれきを取り除いた。掘り起こした秀光さんは息がなく、顔の半分がうっ血し変色していた。
「スグァン!」。敏夫さんが息子の名前を呼ぶ。涙が止まらなかった。福子さんは泣き叫んだ。
東京にある朝鮮大学校外国語学部2年だった秀光さんは成人式のため帰省していた。16日に東京に戻る予定だったが、風邪をひいてつらそうな姿を見て敏夫さんが引き留めた。秀光さんは「うつしたらあかんから」と家族を気遣い、1階で寝ていた。
遺体安置所となった神戸村野工業高校(当時)の体育館は冷たかった。
館内は投光器で照らされ、初めは10体ほどだった遺体がどんどん増えていく。敏夫さんら家族3人は、秀光さんの亡きがらに2晩寄り添った。全壊した自宅が炎にのまれたことも知らなかった。
早く弔ってあげたいという家族の思いを同胞たちがくみとり、秀光さんの母校でもある初中級学校の教室で葬儀が執り行われた。「両親の気持ちを思うと、心が痛かった。精いっぱい務めることだけを考えました」。そう話すのは当時、神戸に駆け付け、朝鮮語で読経した統国寺(大阪市)の崔無碍(チェムエ)住職(73)だ。
敏夫さんと福子さん、秀英さん、そして東京から戻った大学生の長男秀福(スボ)さんは、葬儀後も80人を超える同胞と初中級学校で避難生活を送る。日常とかけ離れた暮らしは、在日コリアンという生い立ちを強く意識させた。(上田勇紀)