四男の綸(めぐり)ちゃんと遊ぶ早川美幸さん。記憶を次の世代へつなぎたいと願う=神戸市長田区日吉町1(撮影・長嶺麻子)
四男の綸(めぐり)ちゃんと遊ぶ早川美幸さん。記憶を次の世代へつなぎたいと願う=神戸市長田区日吉町1(撮影・長嶺麻子)

 「結」(つなぐ)「縁」(いちえ)「縫」(いこい)「綸」(めぐり)-。阪神・淡路大震災で母を亡くした早川美幸さん(37)=神戸市長田区=は4人の息子に「糸」の入る名前を付けた。胸に残るのは、表情を失った30年前、閉ざした心を少しずつ溶かしてくれた仮設住宅の住民たちの記憶だ。「一人では生きていかれへん」。人と人を結ぶ糸のように、つながりを大切に生き、自身の体験も次の世代へ引き継いでほしいと願う。(名倉あかり)

 母の長尾裕美子さん=当時(43)=は、検査入院していた市立西市民病院(同市長田区)の病棟が崩れ亡くなった。長田区宮丘町の自宅も全壊し、小学2年だった美幸さんは父や兄と避難所に身を寄せる。その年の夏、仮設住宅に入居した。

 当時のことはよく覚えていない。だが、父や兄に聞くと、何を尋ねられても「うん」としか返事ができなくなり、笑顔も消えた。

 少しずつ気持ちが落ち着いていったのは、仮設住宅の住民との出会いがあったから。ボランティアで高齢者らの部屋を巡回する父の後ろを付いて歩いた。そばを離れたくない一心だったが、何度も通ううち、住民たちが顔と名前を覚えてくれ、気にかけてくれるようになった。

 「元気か?」「お菓子あげるわ」。何げない声かけに、表情が和らいでいくのが自分でも分かった。

 舞子高校環境防災科を卒業して結婚し、母になる。大きなおなかを抱えていると、たくさんの人に支えられていると実感した仮設住宅や震災後の日々を思い出した。「家族をつなぎ、地震の記憶も次の世代へ伝えてほしい」と、長男は「結」と名付けた。

 その後も3人の男の子に恵まれた。一生に一度の出会いを大切にしてほしい。巡る命の尊さを覚えていてほしい。そうした願いをこめて、次男は縁さん(8)、三男は縫ちゃん(6)、四男は綸ちゃん(1)とそれぞれ糸偏の付く漢字を探した。

 裕美子さんも子どもが好きだった。地蔵盆へ連れて行ったり、たこ焼きを振る舞ったりと、近所の子どもたちの面倒もよく見ていた。「やっぱり会わせたかったな」。4人の孫を抱きしめる母の姿を想像してしまう。

 震災から30年。結さん(10)は小学4年に、縁さんも震災当時の美幸さんの年齢を超えた。昨年11月、家族で「人と防災未来センター」(同市中央区)を訪れた。激しい音響で地震を再現するシアターの映像には、裕美子さんが入院していた病院も出てくる。

 「あそこで亡くなったんやで」。縁さんに話すと「えっ」と驚いた。「生き残れる?」と聞くと、「ちょっと無理かな…」と苦笑いを浮かべた。

 30年前に小学生だった美幸さんたちは、あの日の記憶を語れる「最後の世代」と言われてきた。震災体験を話すことがつらい時期もあったが、4人の子の母になり、わが子の身を守るために「伝えなければ」という意識が強くなった。

 「子どもたちがすべて理解するのはもっと成長してからだと思います。でも『お母さん、ずっと何か言ってたな』くらいでもいいから記憶に残ってくれたら。そして大人になった時、家族や周りの友だちに私の経験をつないでいってほしい」。4人の名前に込めた未来を思う。